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鹿追う者は珈琲を見ず 10-4

「捜査協力に応じなかった、という意味ですか?」
「お伝えするほどの意見にたどり着かなかった、との解釈です」彼女は視線を入り口に移す。鈴木が振り返える先には彫刻家の安部が音と気配を殺し、仏像のような面をひっさげてゆらりゆるり踏み外しそうな左右の揺れ、階段を下りる。中段辺りで、水筒をぐいっと引き上げた。ゆれを演出したのは中指に引っかかる紐が最大限伸ばされた状態でもって階段に接するぎりぎりをあちらこちらへ揺れたからか。
 音量を調節、いつも恰幅のいい先輩相田と話している癖で声が大きいと、聞き込み先のアパートで隣の住人に注意されたんでした、鈴木は人懐っこく失態をこぼした。安部の共犯説、その可能性は十分ありえるのではないか。彫刻像は概算で一・八トン、重しにこれほど最適な代物はない。二年前の捜査資料には台座に据え置かれた彫刻像の完全な接着は認められず、製作者の安部も台座と像は別別に作りひとつの塊から掘り出した作品ではない、との証言が記録されていた。台座は異なる作品で接し結合と時間を経てようやく同一に昇格を許される。そのもの単体では用を成さず、それは無論像単体にも当てはまる。『二つは一つ』、飾られる台を移転場所に毎度作り変える手間を省いた、いずれ私が命尽き果てる、台を作った、その一文は盛り上がって捜査資料を突き破らんばかり、迫る、ほとばしる熱が込められていた。幾人もの媒介者による劣化を経ても屈強な骨子は居残る、資料特有のお堅い言葉が引き立ててしまっていた。直接聴取にあたった捜査員の感化が目に浮かぶ。
 緩めた作業速度を標準に切り替えた。呼ばれた。二度目に、漸く声を発する。へそを曲げる、いやこの状況を楽しんでいるようなのだ、まるで他人事みたいに時々彼女は自分を俯瞰視する。聞きそびれてなるものか、小松原俊彦の死体を元に展開した私の推測を窺う鈴木は一回り気配を広げた。
 圧迫を逃れた小松原俊彦の半身は前例と比べたら、綺麗といえる。変色は手足の末端と顔の一部、頬から耳にかけての狭い範囲に留まるのだった。二年前の事件では一時間以内、部屋の利用時間内の犯行という制約があった。それでも小松原の不均一な変色と似ても似つかない鮮やかなコントラストを浮かび上がらせていた。しかもだ。死亡した当人とは休憩に入る前に係員家入懐士が接触し顔を合わせたとしっかり言い切っていた……。いや、彼が仮に嘘の証言を働いたとしたらさらに遡る一時間前の利用時刻から『ひかりいろり』内で圧迫を受けても不思議はない、辻褄は合う。防犯カメラはリゾートホテルと今年初旬に施行された法律を遵守し、プライベート保護の観点からお客が宿泊を躊躇う備品は不要、とホテルの理念はお客目線の意識を徹底していた。『ひかりやかた』近郊で目撃される有名人、芸能人、スポーツ選手などの多くがここの宿泊者であることは、観光客相手の営業施設では周知の事実である。他のホテルで宿泊をしようものならチェックインを済ませるわずかなときに居合わせた節操を欠く宿泊者たちがこぞって出会いの感動を伝えたいのか、偶然獲得した情報の開示でもって他者よりも優位な立場に自らを据え置くのか、来館、来場、来店は筒抜けてしまう。意識を割く考えに戻る、サブ画面にたまにとらわれることがある。画面を消せば済むが、美弥都はあえて音声をオフに映像は画面を小さくし隅に移した。
 信憑性に欠ける。かといって、あっさり不問に処すではありきたりで芸がない、その他を見落としてやしないか、と疑いたくなる。家入の証言は腕輪型のキーを身につけた物言わぬ死体が証明している、との見方も可能と言えば可能。そうなのだ、利用者に支給されるキーと係員のマスターキーの二つが唯一ドアの開錠を担う、受け取りは予約を希望する宿泊者がフロントに出向く決まり……。
 ああ、そうか、それはありうる。真理を言い当ててる。しかし解説を解き表す材料不足は必死だ。道筋、過程、工程に靄が立ち込めていたのでは、刑事に発言などできるはずもないのだ。おもしろい、美弥都は臆面もなく笑みをこぼした。水面にこぼれた雫、感情は室内に波紋のように波を打った。

 

鹿追う者は珈琲を見ず 10-3

 ひん剥いた両目、息を吹きかけられたみたいな瞳の乾き。けたたましい瞼をひらきとじる。落ち着きを取り戻した鈴木はいまや遅しと美弥都の返答を待ち構えていた、期待膨らむ左右に引いた唇がそれを表す。ページがめくられる、右隅に留めたホチキス針、大仰な前置きをスキップ、A四が一枚、また一枚、休憩時間にぶらぶら堤防に腰掛けて居場所を失った私の両足。
 鈴木はいつもの癖で煙草を咥えていた。
「どうぞ、火をつけて構いません。灰皿はご自身のを」美弥都は声だけをぶつけた。投げやりな態度が彼女の魅力を引き立てる。
「いかがでしょう?何か気づかれたんじゃありませんかね、僕から言ってもいいんですけどそれじゃあ日井田さんはへそを曲げてしまう」鈴木はパンパンに膨らむ携帯灰皿(銀色の耐熱シートを内側にあてがうボタン留め、コインケース型)を絞っては開くを繰り返し吸殻を押し込む空間形成の片手間に手元と美弥都に交互、視線を移動させた。
「一箇所」美弥都は書類を閉まう、封筒ごとを鈴木に返す、概要に目を通した、彼を納得させる回答がここでは求められているのだ、誤答であろうが私の答え。彼女は淡々と言う。「圧迫がもたらす半身の形状変化について、二年前のケースは懐疑的区分に該当します。死体構築の猶予は一時間、過去の事例は下層の生体組織が皮膚を飛び出さない絶妙な加減を施した。まず全身圧挫という断定が早とちり、静脈の圧迫を引き起こす前に被害者は息を引き取った、圧迫を免れた体表は健康体の証拠である肌色を保つ。単に口を押さえただけかもしれません、大掛かりな仕掛けを私ならば大いに活用します、搬入の必然性を高めるのです。徐々に呼吸筋を圧迫、ころあいを見計らい窒息死を後押し、息の根を止める、その後圧力を高めて完成、運び入れた使用器具、証拠品を時間内に回収した。呼吸を疎外する絶妙な按配に制御してみせた、半身に圧迫は偏る、もう片方ではかろうじて呼吸は賄えていた。そこで口を塞いだとすれば窒息は外的な素因、圧迫に基づくとの、誤った見識、口鼻閉塞から外傷性窒息、そして全身圧挫へ思い至る」
 まったく驚かされる、鈴木の眉は極端に額を狭めた。前もって吸い始めたばかりの煙草を彼は躊躇なくもみ消し灰皿も蓋を閉じた。見開いた目が語る。「この人は底が知れない、たぶん限界は存在すらしてはいないのかも。常人には見えなく彼女と同列の才能に互いの全体像がかろうじて見えるんだろうな……。羨望はここまで」、気を取り直す鈴木は不意に浮かんだ疑問を積極的に尋ねた、いつもならば躊躇うはずである。死体と対面した直後の興奮冷めやらぬ、ということかもしれない。
「お聞きしますよ。検死報告を読まれた末に導いた結論なのか、先ほどの類似する死体発見の報告が少なからず日井田さんの意見に反映したのかどうか。まどろっこしいですけど、僕……」美弥都が遮る。
「二年前、当時の資料をいただいた私が過去に存在をしていたとして、おそらく回答は拒んでしょうね」細い腕、袖をまくった白い前腕を組む。

鹿追う者は珈琲を見ず 10-2

「二年前のコピーです。僕、かなり錯綜してます。日井田さん、どうか僕を落ち着かせてください」黙々と書類から死体の情報を得る美弥都のこの態度は十分鈴木の話にも耳を傾けている。いちいち打つわずらしい相槌をしぐさから排除してしまった彼女、そっけない振る舞いは聞こえてる証拠なのだ。
 鈴木はどうにか立ち上がる衝動を押さえつけるも、軽く腰を浮かせ押し戻し、スツールが悲鳴をあげていた。
「備品の扱い方によりその機能が著しく損なわれた場合、経年劣化を超えうる衝撃を一定時間加えたその様子が複数に見られたら、お客といえど同質の機能かまったくおなじ製品を弁償していただく請求をしかねません。お静かに願います、あなたのため、リゾートホテルの備品はリース品である可能性が高いでしょうから」
「ぞっとしました。二桁ぐらいゼロが多い値札を想像しちゃいました」冷や汗を掻いた、ネクタイを人差し指をかけて鈴木は緩めた。
 美弥都はあの箇所で表情を変えるはずなのだ。
 ニ時間前の死体に不適格な項目欄が太い字体でもって埋まる、妙に丸みを帯た字、字によって人の性格を診断する流行ごとに巻き込まれたことが学生時代、ランドセルを背負っていた頃に襲われた。気味悪がられたのだった。科目ごと曜日ごとに書き留めるノートの字体を尖る、丸く、細く、小さく、斜め、連なり、と変える個人の所有物が教室には不釣合いのマットなピンク色のお小遣いではおいそれと手に入らない定価を背面カバーに記載した本との照合。さらし者、一人は何かと庇ったものがいた、私にしなをかけていた人物だったか、論争はクラスを揺るがす事態に私はそういった諸事情に無頓着で名指しで気味悪がられても明日の登校になんら支障もあるはずがなく、しまいにはこれこれは誰かの字に似ているからお前はあいつのことが好きなのだ、と好意を寄せる対象まで作り上げられたのは、想像力豊かな過渡期だった抑制が働く以前の過去にしまいこみ、取り出さずに失敗を失態を非礼をまるで通過してはいなかった白を切りとおし、それらしくいっぱしの人を周囲に認めさせているんだろう。美弥都はフラッシュバック要した記憶たちをシュレッダーに粉々の一辺に形を変え取り出された記憶の引き出しにしまった。
 鈴木が寄せる判断を仰ぐ熱視線をトレース、美弥都は鈴木に成り代わることを選んだ。このほうが彼の捜査で見聞きした情報が加わり、時間が短縮できる、という判断であった。

 二年前の死体は〝あの〟可能性がまだ残されていた。搬入経路を探し出せばの話だが、わずからながら希望はあった。死を迎える宿泊者と室内に入り、殺める。利用時間内に半身を圧迫し室内に留まる。係員の遠矢来緋の共犯を当時証明できていれば、逃走経路に捜索の手を広めず犯行の手順を執拗に問い質すことで、珍妙な他殺体、というだけの、ようは殺人に分類できるいつもの鈴木たちの仕事と遜色はなかったのに。口は割らない、証言は一向にままならず後退、的外れにもほどがあった。現場に居座ってしまう彼女なりの理由が存在するらしく、呼びかけが精一杯、それ以上近寄ったりまして触れることを忌避しなければなりません、そんなことが書かれていた。
 思うに、あれは災いの対象、その死体に触れると自らにも厄災の火の粉が降りかかる、きっかけを嫌ったのさ。

鹿追う者は珈琲を見ず 10-1

「封筒は拝見していただけたのでしょうか?」鈴木はカウンター席に着くなり率直に尋ねた、職務を前面に押し出したつもりである。
 事情聴取はホテル内の宿泊者を含む全員をその対象に敢行された。天窓が逃走経路に使われたとする調査とその結果を踏まえた協議の末、鈴木たち警察は部屋に篭る宿泊者を訪ね回る。待機場所はこの喫茶店。地元警察は乗り気ではなかった、派遣された人員も鑑識と捜査員の合計四名、面倒ごとを嫌う自堕落なベテランと有り余る元気だけがとりえの若手のコンビが目ざとく捜査に見切りをつけ鈴木へ丸投げた。厄介ごとを押し付けるとはこのこと、彼らは一時間余り鈴木の指示をほかに縄張りを主張するどころか役割を与えなければこっそり帰ってしまう、ことあるごと鈴木に大よその現場を引き上げる時間を尋ねていた。これまで仕事に真摯に取り組んだ姿勢が微塵も感じられない。死体の引き上げに紛れて彼らは鈴木に権限を譲り渡した、彼ら上司の意向を帰り際に到着の挨拶に通常伝えるべきであるのに、中々巧みな仕事の放棄、しかし義務は果たしてる。責任をもしかするとあの二人特に年嵩の増した定年の迫るベテランは毛嫌いするのだろう。鈴木たちO署の人間が赴く現場はたいてい通常業務に携わる捜査員が煙たがるのだ、地元警察の反応も逸脱よりか通常に傾いた、と言える。彼らが出た約一時間後、が現在である。検死報告を携え鈴木の階段を下りる足取りは踏み外して転げ落ちる恐怖のようにみえてしまうおぼつかない、そろそろと、確かめる段差に筋肉を傷めたマラソンを走りきった翌日早朝を思わせる。
「封筒は拝見していただけたのでしょうか?」再送。美弥都は鈴木の忘れ物を確認してはいなかった。
 言われたので一応あけてはみる、事件が起こらなければ見なくても良かったかもしれない、同室で起きた事件の見当は大よそながらつけていた。ありえない、いや彼女はその意見に反論を主張するだろう、なぜかと言えば対象を探るのにものさしを持たずして把握ができようか。見当違い、的外れもいいところ、笑わせる、それぐらい想像つかないのかよ、いいえ、私ですら想像だにしない予測を超えはずれ縷言実に日々出会わされてる、大勢のお客のうちのたった一握りに面を食らう。彼女の端麗な容姿目当てにあれこれお客たちは勤務先、海岸沿いの石倉に出没、上着を忘れ、わざと最高額の紙幣で支払い落としかねない硬貨の重みを支える受け渡しの手との接触を狙い、泥酔して追い出され罵倒を望んだり、開店から閉店までカウンターに居座る破天荒な人間たちに飲み物を提供するのだ。そうして彼女は予測を立てる。確証が得られるそのときまでは、それらしい推測が確証に近づきつつある場合にも軽率な先走る判断も彼女は控える。しかもだ、美弥都はいつも骨格の理解は話を聞いた初期の段階に解答を導き出す、悩むのは周辺に漂う不確かで瑣末な個人的で到底彼女の私生活とは無縁のいわゆるこじれた情が絡み合う人間模様なのである。
 彼女はしかたなく封書を手に取った。
司法解剖の書類ですか?」死体検案書、と上部、見出しにある。