コンテナガレージ

サブスク・日常・小説の情報を発信

意図された現象に対する生理学的な生物反応とその見解、及び例外について

 公演一回目終了後 ハイグレードエコノミーフロア


 肩が上下に動く、胸郭、横隔膜の活発な動き。鼻から息が漏れる。アキにギターを手渡す、トイレに入った。出てくるなりギターを受け取る。
「着替えましょう。その汗では体が重いですから」機体中央部、アイラ・クズミ一行が借り切るハイグレードエコノミーの搭乗者はマネジャーのカワニを除くと皆女性である。カワニは演奏前のアイラが着替える場面において、即座に身を隠すのだった。顔を背けるときもあれば、姿ごと消すこともある。今日に限っては逃げ込む場所は少ない。彼は機首に対し右側の通路でもって、ギャレー付近でビジネス席へ顔を向ける。アイラはフロア最後部、離陸に座る席の真横、左側の通路に立つ。
 ギターを座席に立てかけた。タオルで顔の汗をぬぐいつつ、アキが手渡す同じ衣装に着替える。大胆に脱ぐ。構ってなどいられない、というよりも彼女自身は他人の前、性別問わず着替えを見られることにそれほど抵抗を感じないのだ。もっとも必要に迫られた場合の行動である。日常的に、汗をかいたからといって路上でおもむろに上着を脱ぐこととは別物、一応常識はそなえているつもり。仕事として恥じらいを捨てられる、という彼女の主張。
 適宜に全身を拭く。足元や背中を身軽に私の周囲で位置を変えながらアキが手早く汗をふき取る。まるで、人形にでもなった気分だ。あれはどうして女の子のアイテムだったのだろう、無地のシャツをかぶる、首元からメイクの直しに入る爪先立ちのスタイリストに合わせ、アイラは中央列の席に腰をかけた、体に通路を向ける。
 果たせない願望を人形に込めた。なりきる、自己投影。男の子よりもませている、その比較は同年代の存在があってこそ。一人の場合を考えると不成立に終わる。遅い、という認識こそ、発達は遅れを手繰り寄せる。
 顔が自由になった、むずがゆい。ひざまずくアキから水を受け取る。ストローがついていた、彼女が用意したのだろう、メイク後に口紅が落ち、再度塗りなおす作業の軽減を先回りしたのだ。
「エコノミー席の最後列の後ろ側にはトイレのほかに、あなた方客室乗務員が待機するスペースなどは存在するのでしょうか?」息が切れていたが、座り、水分を補給すると、アイラの呼吸はあれよという間に落ち着いた。補給によって汗が汗腺を這い出すも、顔は一切汗と手を切った。掻くな、という指令を夏の野外ライブで自身に出し初め、徐々にそれからは汗を掻き難くく現在は統制が利くような体に変化を遂げた。
 右手の通路中央で小柄な方の客室乗務員が頷く。「ございますが、貨物室に通じる短い通路のみとなっております」
「あなた方はそこへ業務を果たしに何度も足を運ぶ場所ではない、ということですね」
「はい。貨物室へは、緊急の要件がない限りはドアを開けられません。いえ、鍵は持っておりますけれど、機長の許可を得なくてはなりませんので」
「アイラさん。時間を知る方法ですよね、こだわる必要がありますかね?」そっぽを向くカワニが言った、距離に比して声が通る。
「ええ、私の目線ひとつでお客は後方の状況を気にかける。そこの乗務員さんが業務の一環に同席を許されているのであれば、問題はない、私が登場する前にそこに滞在する意味を付与し、お客自身がそれを無意識に視界に入れていることが求められます」
「私が補助席に座っていましょうか?」膝元の顔、アキが代役を買って出る。悪くはない提案だ、アイラはしばし熟考する。
「そろそろ、出られた方が賢明かと」もう一人の客室乗務員がフロアに駆け込んだ。通路に上半身が制服姿を見せた。
「なにかありましたか!」カワニが間髪いれずに問いかける。振り返って彼は通路を尾翼側に進み出た。
「お客様が、いつ始まるのかと。問い合わせが殺到してます、これ以上は抑えきってしまうと……」アイラは言葉を遮る。
「弊害が生じる。機嫌を損ねかねない」隣のギターを手にとって立ち上がる、エコノミークラスの座席フロアに行き着いた空間が広がるところでギターを肩にかける。ストラップを肩にかけた状態でもし万が一にも、横揺れによってギターのネックが座席に引っかかり、私の体重が亀裂を生み出したとしたらば、予備の一本に頼らなくてはならなし、それはできる限り避ける、いや避けられる無用な取り組みに時間を取られたくはない、これが本心だろうか。
「アイラさん」か細い声が背後から届いた。アイラは振り返る。アキが目線で訴えていた。なるほど、非常事態の予感は微量ながら的中していたらしい。