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兎死狐悲、亦は狐死兎泣  1-1

「日井田さん、押収品の手帳はお持ちですか?」鈴木は日誌を注視した前かがみの突っ伏しそうな姿勢のまま片手を伸ばす、上着は数分前降雨がもたらした湿度の上昇とほぼ水といえるコーヒーの摂取に吹き出す汗、それに暑さに耐え切れず、脱いでいた。袖のボタンを留めた腕は軽く手首が覗く。
 エプロンが軽い。美弥都は返却不要の意思を伝えた。昨晩に内容は確認した、と。
 O署の刑事鈴木と『ひかりやかた』支配人の山城、彼らはフロント業務の滞りを解消すべく導入された手書き入力の業務日誌に該当箇所を見つけては興奮した。飛び上がるほど鈴木は色めき、山城は席に着いた当初こそ厳かに声も控えめを心がけていたのだが、鈴木の何気ない一言でそれは一変したのだった。そうして手帳を「確認に必要なんです」、と鈴木が返却を求めたのである。
 手帳は二年前の事件・事故(鈴木は必ず事件のあとに事故を強調しつけ加える)前後を書き記した係員三名の個人の日記である。押収品は一度所有者の元に戻ってはいたが、当時の捜査記録には「裁判などの身の危険に晒された場合に備えた用心で、無実が晴れた自分たちが所有していても仕方がない。そちらの権利で押収したのだから責任を持って処分を」と書かれ、彼らに突き返された謂れをもつ。
「現実と仮想空間の区別は、分けるということを僕らと僕らよりも若い世代は意識に挙げる機会は持てていなかった、少なかったと思います。まあ、ですけれど現実とごっちゃに考える人は稀で、いわゆる特殊な事例に当てはまる人種の日常生活はとっくに破綻をきたしてます。なので彼ら係員はその、一般的な客室係の能力値は山城さんが仰った通り、標準値を下回るのでしょうけれど、錯綜や物事の判断、善悪・正負の区別は業務を共にする山城さんのほうが、それは良くご存知のはずです」鈴木は二十代だろうか、山城は五十代と捜査資料に書いてあった、係員三名は二十代が二人に三十代が一人に該当する。
「フロント業務では私語は厳禁ですし、私は控え室で事務作業に時間を拘束されます。実質的な業務ですと二時間程度でしょうか、そのほかはチェックアウトとチェックイン後に各自が館内へ散りますから……。もっともプライベートな会話はホテルの規定では禁止事項に据えられてまして、厳密な罰則はないに等しいですし、これはいわゆるお忍びやってこられる方々の関係を外部に呟いてはならない、そういった規則と、いわれてます」今後宿泊先に求める旅行者の要望、その最上位に、『個人情報口外厳守』が浮上するだろう。美弥都は二段目に並ぶ豆の一つを選ぶ。
「業務日誌は理路整然に書き、日記ではファンタジー要素や詩のような表現も見られる……。つまるところ、山城さんはあれですか、業務日誌は誰か一人がまとめて書いているとでも?」
「ありえません」山城は肩を軽くすくめた。堅物に思えた支配人は対お客以外への振る舞いは人間らしさが戻る。「業務を終えてフロントに戻る、彼らにはその義務を課してます。私が記録を読んでいます、書いた傍から。意思疎通の不足もこの辺りが要因でしょう」自虐的な言い方である。