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兎死狐悲、亦は狐死兎泣 6-8

 果実の甘さ。作業の手が止まる。赤銅色のミルを回すハンドルを伸ばした脇が心地よく程よい伸張を這わせる体勢であった。口に含む味覚のほとんどを苦味が占める、甘さはまだカップの縁に口をつけ液体が流れているときに良く見られたいがために印象を植え付けて、苦味、二つが混ざり合い食道を流れた口腔内が空っぽの状態に、忘れたころに甘さがぱっと花開く。目に入る腕の時計。三分以上五分以下か……、時間外の変質。おもむろに美弥都は姿勢を正した。
 私は時間内に限ったものの見方をさせられていたのかもしれない……。
 美弥都はほうけてしまった抜け殻、動きを意識的に止めてしまった。床石にぺったり調理靴のシンプルで頼りないゴム底の厚さに体重を一点に任せた。コーヒーの変化率を試すのだ、言い訳。考えが廻る。 
 一般的な見方をすると、彼女の動性は事件について何かしらのヒントを掴んだ、と思われるだろうが、そこは日井田美弥都である。一筋縄でいこうものなら、JbrC優勝後は皆所属店舗からの独立や系列店の店舗経営を任されるはずも彼女は大会前と変わらず欲もなく、淡々日々の作業をこなす予測不要かつ受賞前の一従業員に平然と戻る。目先の利益や腕試しの虚栄心などはもってのほか、それらを抱える空間すら彼女の体内に用意される余分なスペースは生まれたときからそもそも存在すら未確認なのだ。驚くこともないだろう、言わずとも宗教に加担した自己犠牲の精神とも異なる。興味がないのだ、経済観念の損失ともいえない。一言では語れない、これが彼女をもっとも形容するにふさわしい。
 思考の渦を脱する、端からは被害に震えるいたいけな、かすかな物音にも敏感に反応を示すと映るだろう。
「もう、一つ!」美弥都はベンチシートで目を瞑る安部に大きく問いかけた。時間をかけてゆっくりお客の瞼と前方に傾いた首が引きあがる。「熊の石像は完成を見ましたか?」
「生まれ変わりました。以前の像はとっくに死にました、ううん……死んでいた」視線が引きあがる。「壊れてこの方、ついさっき警察の方の足音がまばらに減った頃合にようやく、取り掛かれた。当分は石だと思ってください」マスクをずらす、際限なく口の端が頬の奥の奥へ広がっていった。「……見ようによっては完成が迫りますけれど」
 もう一度ときんと鼓動がわかりやすく内部をはねた。美弥都は非礼を詫びて安部が店を後にするまで無言を貫いた。
 係員たちの筆跡と文字が視界に用紙ごと張り付く、
 見当はついている。
 だが、まだ早計だ。水の泡と消えてしまう、急いてはことを仕損じ見失う。
 つらつらと浮かんだ考えは、不十分だ。とはいえ手に入るパーツが揃うと全容を見せられる。わかりやすく一般の、そう標準的な鈴木にも。
 私は店に一人残された。安部は自宅へ帰るのだろう、像の完成にのみ彼女は縛られる。しかし、警察が退出許可を出しているとは思いがたい、部屋で待機。じっとしていろ、いつまで?線引きは警察の捜査が及ぶ進捗状況しだい、私しだい。しかし店を放り出すわけには行かない、『ひかりやかた』の臨時喫茶店員がベースなのだから。ただし宿泊者は一度ここを訪れた者たちだ、二人は外へ食事に出かけ、もう一人は今しがたサービスを堪能し階段を上がった。気が変わって引き返す、ということもままある。勤め先の店でも忘れたように店に入り同じ品物を頼みほぼ同じ滞在時間を何をするでもなくただ席に腰をかけて数時間前の出来事をトレースするみたい、あるいは置き忘れた魂をじっと充電、補充にいそしむ。そういった人物は少なくとも美弥都はその目で確認していた。
 午後十時、きっちり閉店時刻は守った。それから彼女は興を削がれっぱなしの事件を追いかけるべく店を出た。フロントで部屋の鍵を借りた。支配人は最寄の警察署に立ち寄ってから帰るそうだ。施設内における事件あるいは事故を見届け、判明した詳細によっては直ちに責任を負う対応の早さを見せ付けるつもり。たまたまが二度目も、言い逃れは墓穴を掘る三度目が先回りし埋めてくれたか。
 とっくに匙を投げている、鈴木への義理はほどほどに果たすつもり、過去をほじくる後ろ向きの作業はコーヒー豆の抽出方法にかかりっきりでは非効率だと、思ったのだ。悪く思わないでほしい、思ってもそれは自由だ、美弥都は頭を働かせ続ける回路の継続に事件を選んだのであった。 
 フロント。駐車場に目を凝らす私に声がかかる、立ち止まって十秒。事情を話す。
 遠矢来緋が同行を願い出た、支配人山城の指示らしい。美弥都は断るも、同行が入室許可の条件なのです、と彼女は眠そうな瞳で言った。隣には兎洞が立つ。それほど長く滞在するつもりは予定に入れていない、連れ回しても業務に支障は生じることもありはしないのだ、なにしろ私が唯一接客を受ける宿泊客なのだから。