コンテナガレージ

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あちこち、テンテン 2-1

 小説家家業に流れ着いたのが二年前の春。時が過ぎる早さは、新鮮さのかみ締めを排除してしまう守りの人格ではないかと、感じる三神であった。ビルの二階、通りを眺める窓側の席、天井までの窓の無言の働きかけは開放感が否応なく引き出され、また歩く人々を見下ろす征服感に浸れる。特等席に座り、今日も開店とほぼ同時に仕事に手をつける。期日は来週。ゲラのチェックと平行作業で次回作の構想を練りつつ、執筆作業に取り掛かる三神は、運ばれた濃い目のコーヒーで目を覚まし、脳内のゴミ、処理の滞った情報の断片が抜けきった状態を維持してくれる時間帯を充て昨日執筆した文章を振り返った。そこに自宅に帰る道で思いついたアイディアを挿し込む。ぐっと見栄えが良くなった、今回の主人公に合わせ文章はわざと淡白な表現で書いていた。それがいつしか、抽象的な表現に客観的な描写がスライドしていたのでここで、修正。思い切って書いた後にはやはり振り返る時間が必要不可欠だ。無駄な時間、あるいは完成させてから直してもと思われるが、不整合の不整合が重なると二度も直す必要性が生じて倍の時間を要するのだ。また、短いセンテンスの間に振り返ると、物語、文章の構造や目指すべき着地点がよりはっきりと輪郭を帯びる。つまりは、これがもっとも効率的な作業なのだ。ほかの作家はどうだか知らない。資料を調べ、執筆の手を休めて整合性、正確性を求めるのだろうけれど、私には向かない。それらは執筆時には既に取得済みの情報として寝かせ、取得から時間を置いてからではないと、アウトプットには適さないと考えているのだ。文字に味や深みが出るなどといった、不確定な発言ではない、私が認めていないのだ。外に出すには、時間をかけ、私というフィルターを通過しなくてはならない。要するに、同じフレーズであっても好きな人に言われるのとまったく興味のない人に好きだと言われる、違いの差である。だから、一日のスケジュールは執筆時間と情報取得、おもに読書の時間に大きく分けられる。大体、午前中から夕方にかけて執筆、場所をいくつか点々とする。自宅では書かない。書けないのかもしれない。誰かにみていて欲しい、一人だと不安で取り組む作業に意志が通わないから、何度か分析した結果がこのような解答であった。家でも書けなくもないし、環境は断然家が勝っている。私は言葉を調べるときは辞書を利用するため、外出先の気になった文字はネットで調べておき、その日、自宅に帰り、改めて辞書を引く。非効率さはぬぐえない。ただし、無意識に文字を書かない、という意味合いも外の仕事には含まれていると分析する。それに、予期しない外的な刺激に私はいつも反応してしまう。集中すると人が通りかかるだけでも、体を揺らして意識をまた、取り戻す。その繰り返しは、内面を見つめる視点と常に外側を観測する定点カメラの役割を担うのだ。そうやって、外の内とのバランスが主人公の内面の内の内を時に、突っぱねて正反対で突発的な他人の強情さに現れたりする。すべてがすべて、そうというわけではない。仮定の話、いいや小説だから架空か。