コンテナガレージ

サブスク・日常・小説の情報を発信

K国際空港二階 出発ロビー 60番ゲート前 

「職員専用の特別ルートを通れましたけど、今から引き返したいって言っても応じられませんからね!」ご立腹、カワニの態度は表情との不一致が認められる。所属事務所プリテンスの楠井と専属スタイリストのアキが彼に続く、空港ロビーの利用客はまばらであった、規則的な生活習慣を送る者は意識を失う時刻である、家を出たときは日が落ちていた。
 楠井とはなじみが少ない、今回彼女は不測の事態に備えた事務所側の女性陣、という立場を与えられた。異性のカワニでは要求が難しい事情を考慮したのだろう。葬式にでも行くような装いである、真っ黒のスーツに身を包む。彼女の一張羅なのだろうか、対外的な応対を兼任、ということも考えられるか。香水は多少つけすぎてるから、そのあたりは忠告しておこう。大型のトランクはカワニと楠井の二人、アイラとアキは小型のトランクを預け、搭乗手続きを済ませる。予備のギターも預けた、これはJFA航空の地上係が機内の客室乗務員に手渡す。手荷物検査、出国手続きを通り抜けた。外国人のそれも多数のさまざまな大きさ形状の革のケースを移動用のカートに縦に並べる数十人単位の集団がベンチ一帯に固まる。
「オーケストラでしょうかねぇ」手続きを済ませたカワニが隣でつぶやく。
「打楽器も個人の所有なのでしょうか?」アイラはきいた。
「楽団の所属では個人というのは考えにくいでしょうかね。調べてみましょうか?」
「いえ」
 先を進んだアイラは行き先を誤った。カワニの案内を受け、滑走路を見渡す特等席を勧められた。
 周囲が放つ視線を感じる。当然同乗者は皆、アイラを目当てのお客なのだから、いつも浴びる視線とは種類が異なるか。彼女はギターケースを椅子に立てかける、リュックも下ろした、贅沢に二席を使う。
 カワニは端末に出て、その場を離れた。
 機体が安定した航行を保つ高度に達し、準備に取り掛かる。
 アイラはシュミレーションを脳内で行う。鮮明な映像に上げられないものは現実に披露することは控える、彼女は自由度の高い創造の確かさには懐疑的だ。極力不確定な要素との係わり合いを避けるし、かといって何もかもすべて一人で、というのはこの世界では困難を極める。妥協。大いに彼女を取り巻くあらゆる世界が打算的な構造、仕組み、働きであるように感じてならない、ふしだら。フライトについて愚痴をこぼしているのとは異なる。不測の事態は起きる起きないに関わらずスケジュールに組み込む、あらじめを人は不幸な出来事と捉えがちだが、私にはランダムに、そして無秩序、遠慮なしに流れを断つ厄介な現象と早々に手を組む。 
 タバコを吸うため、席を立った。両脇に座るスタイリストのアキと楠井が見上げる。二人にギターの見張りをお願いした、リュックもだ。私の帰還先を二人に教えてあげた。
 アイラの荷物はいつもギターケースのポケットに収まる、それぐらいに荷物は少ない。いわゆる女性が持ち歩く化粧ポーチはそもそも購入した覚えがない。すなわち、化粧品の類は自室、屋外に関わらず彼女の個人的な所有物として存在を許されていない。無論、そういった人物は概して化粧による変化、変装の必要がないからだ、というやっかみが聞こえてきそうだが、彼女生来の気質が化粧の不必要さを跳ね除けてしまう、容姿の良し悪しは外側たちの判断が主だった角度であり、そもそも鏡を見ない彼女である、これで一応筋は通るだろう。
 アイラはゲートに着く道すがら視界に入れた喫煙室へ向かった。つま先を見つめる。気分は上々、高揚と緊張の二つを孕む。
 化粧について、考えが及んだ。のっそり、採掘機械に似た乗車型の清掃車とすれ違う。近未来だとこれは人工知能を組み込む。人の家を掃除するロボットが巷では出回り主流な家電製品の地位を獲得してるらしいが、このような場所での代用には不向きなのだろうか。人件費の削減と会話を可能とするロボットでは愛くるしさに勝る後者が利用客には好まれ、昼夜を問わずして働く彼らは優遇される、と思う。
 私が属する業界ではカメラに撮られる者は性別を問わず、顔に化粧を施す。だが、私といえば、スタイリストの適宜な最低限の施しが標準となる。つまり、より良くよりもこれ以上悪く見られないようマイナスの要素を消してもらう、といえば通じるか。私の言葉は不足らしい。しかし、懇切丁寧に詳細を語ると、今度は情報量が多すぎてしかも早口で理解が追いつかない、という。
 まったく、そう、まったくなのだ。
 見世物小屋風の喫煙室に入る。植物園を連想させる灰色のうす曇のガラス、内側に傾く造り。贅沢と無駄を履き違えた空間を取る頭上。排気システムの関係かもしれない。等間隔に細く白い柱、デザインか補強のための部材か、ペンキで塗った印象を与える。ガラスは二枚だろうか、特殊な加工を施してあるようだ、屈折した光が通路の視線を遮っていた。曇りガラスに映る影は人の通過をかろうじて知らせる。
 頭皮がひどく痒い、帽子をかぶらされた、カワニの指示である。アイラは入るなり、素顔を晒した。部屋には三名、すべて男性である。一人はひたすら端末に夢中、もう二人は商談だろうか、綿密な打ち合わせに忙しくタバコは口にも指の間にも見あたらない。ドアの横に自販機を見つけた、缶コーヒーを買った。通路に面したスツールに腰を下ろす。
 カウンターに丸い穴が開く。
 席に座るとセンサーが働くようだ、不意をついたトイレの開閉を思い出す。といはいえ、どこかで取り入れた記憶はありあり蘇る寸前に姿を消した、喫煙室の消臭機能が記憶の燻りを吸い込んだらしい、彼女は平然と記憶の後姿を見送った。
 これから演奏に取り掛かる。
 演奏の開始時刻は本番その時まで非公表、これはチケットの予約時に伝えた。期待感を煽る趣向、引き延ばしを今回は取りやめる。普段の演奏である定期ライブでならば、お客の期待を裏切って一曲目に早々新曲の披露に打って出たり、会場準備を装った開演時間を遅らせるアナウンスを流しお客がざわつき始めた頃合を見計らって、突如スタッフにまぎれたアイラがステージ上に上がり歌を届けるなどの、そういった手法を今回は封印する。なにしろお客には一度、冷や水を浴びせかけたのだ、これ以上の引っ張りは懐疑心を生みかねない、と本番に挑む気構えをアイラは浚った。
 そういえば、新曲の要請が数日前に届いていたか。クライアントとも顔を合わせた。車のCMに起用したい、取って出しの製作依頼である。最近はこれが多い。スポンサーが製作費用を持つ、ほとんどCDの発売は付属品、これが的を射た表現に思うのは私だけだろうか、アイラは煙をゆっくり長く細く吐いた。
 空港内と隔絶された視界、圧迫感がもたらす気分の落ち込みの軽減に透明なガラスを採用したのであれば、誤った選択だろう。誰もが、わずか数分の喫煙に開放感を欲しがるのか?それならばまだ許せる。ここは明らかに一線を越えてしまった、姿は隠しなおかつ他所の動きは視界の納める、身に潜む支配欲の賜物、いいや結晶に違いない。
 贅沢な計らい。
 現在おかれた喫煙者の立場を鑑みると、タバコを吸えるスペースがあるだけでもありがたい。非喫煙者が守られる立場であり、権利を声高々に主張することもまた、当然との概念は捨て去るべきだ。