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鹿追う者は珈琲を見ず 7-5

 たしかに似てはいる。
「出会う同属、同種の数は人に比して低い確率であります」美弥都は淡々と応える、問いを拾う、これは気まぐれ。「適する対象はまったく姿形の異なる者を見続け不意に見覚えのある懐かしい者が現れた。匂いなどの感覚器を頼りにする、出会うまでだ。頼りない視力であろうと、像を結んだら有無を言わさず認めてしまいます。猿と熊と鹿と狐と兎と鮭と鯨では、どれが私たちだといえますか?」
「さるです」
「出会わなければ手痛い罰が天から下る、という規則の外に動物は生きていられる。現に生殖、結婚相手を見つけられず一人やもめのまま死を迎える者はいるでしょう。私の断定はおそらく正しい、学者でありませんので公言は控えますけれど、単独で生活を続ける動物は一人を好む、ゆえに子孫を残す相手と出会いません、避けますので。いないとは言い切れない、否定は難しいのです。一人で生きる者は一人生涯を終えます、その独り者の死体を見つけたとしてもその動物が過去、繁殖に及んだ是非は触れずに見つめるだけでは判らない。したがって子孫を残すことなく一生を終える者も少数は存在する、私の意見です、鵜呑みにしないよう願います」
「子供には少々難解に聞こえたけれど」室田の言葉はありのまま受け止めた。彼女の意見は的を射る、反論の余地はないだろう。ただこの娘は疑問を持つ心に止める、忘れる、諦めるどころか彼女の持つ知識を総増員する全力の考察に現在取り組む。わかりやすさ、教えには必須だ。噛み砕いた説明は理解につながる。なにしろ言葉を知らないのだから、出発点は共通イメージの総量が制限された位置を始めと定める。しかしだから難しい言葉を取り去った解説が適切であるのか、というと目にする聞き取る初登場の言葉たちの登場回数と頻度の調節によっては難解な言葉さえ理解に及ぶ機能は有している。私たちと大差のない脳を彼女らは備えるだ。見くびること、それは自らを蔑み卑下し侮辱する行為と同質だと、改めるべきだろう。養育を放棄した私が言えた立場か、反論が聞こえどこからともなく涙を武器に女性たち、子供を盾に自らの存在を主張する人物たちがやんややんや言いたい放題。
「日井田さん!」青ざめた鈴木が叫んだ、忘れ物の中身を私に念を押す登場にしてはあまりにも大げさだ。何事か、刑事が我を失う、とはつまり、そういうことである。「小松原さんが例の部屋で、亡くなってます」現在継続して死を向かえるように聞こえたが、彼の育ちのよさが語尾に現れた。その部分がどこなく行き場を失い、補い、役目をあてがわれるも浮いた存在に周囲となじめず所在なさげに、聞こえた、いいや生きた人みたいに思えた。過去を振り返る暇が削られてゆく、エプロンの大きなひとつ大のポケットに鈴木の忘れ物を忍ばせる、客人二人は途中までついてきた、室田祥江の同伴を鈴木がはねつけ断った。客室に上がるエレベーターへは中央の『例の部屋』という新た呼称を得た該当先の外周を通る。中央を目指す通路へ曲がる足が止まる、突き当たりに目が奪われた、うずくまり床になめた体勢を取る生き物だ、動いてはいた。その姿は仁王立ちの猛獣よりも彫刻らしくなまめかしい肌の質感が遠めだからか、遠視の美弥都に体臭を放った。死に生き物は擦り寄って、死は生を迎え入れる。死に偏ってる、割合が彼女を殺しかねない。どんどん立ち込める生体エネルギーがもうもう陽炎みたいに生き物から這い出ていた。声を掛けられなかった、そのまま見つめることすら許されていない、見えてはいないだが、私も観戦には代償を払うべきだ、と悟れた。内部で生き物の手が伸びる。槌を持った腕には切り傷で覆われる、飛び散った命を埋め込む。
 呼ばれた。あちらでは先に死がやってきていた。吸い取られたのかもしれない。すると宿主が生まれた、ということ。
 手を引かれた。血の気の引いた血圧の低い体躯に不釣合いな大判の異性の手であった。薄い循環をこうして私たちは営みに言い換える。血液の浄化、睡眠、地と日と月の運行、世代交代。死の手前を計る、あの生き物に少々興味が沸いた。美弥都は神に誓う、久しぶりに会話を求める人物が現れた。これまでの低俗でまとまりがなく何べんだろう繰り返しそれでいて自慢げで口ばかりが良く動き他者を貶め引きつり笑い下品に腹を抱え指差し剰え家族まで罵る、冗談で済まされるものか、彼女は初めて祈りを捧げ、眩い光線を放つ部屋の死体に挨拶を投げかけた。息を呑む彫刻が生と死を持ち合わせる、当然ではないか。