足音が増えた。ひげを生やした男性、帽子を取り、熊田たちに会釈。彼が話す。「この人なら見ましたよ。お独りで確か、日曜の開店間もない時間にいらしていたと」
「一人でしたか?」
「ええ、お独りです」
「この人について覚えていることがなにかありますか?」鈴木は店員の記憶を掘り下げる。
「本を忘れていきました」
「本?」
「ああ、あのおかしな本か」女性がわざとらしく拍子を打った。
「おかしなとは?」鈴木がきく。
「上下、逆さまに文字が印刷された本なんです」鈴木は振り返る。言いたいことは行動だけで計り知れる熊田と種田である。紀藤香澄が座っていたベンチに落ちていたと証言する大島八郎が同様の文庫本の存在を主張していた。不可思議な本が二冊か、熊田は顎をしゃくって鈴木に話を続けさせる。
「その本はこちらにありますか?」
「ええ、今お持ちします」
女性が鈴木に本を手渡した。鈴木は素手を引っ込め、手袋を取り出し、本を受け取る。
「私、触ってしまいました。ごめんなさい」女性は謝る。
種田が即座に回答。「問題ありません」
ページをめくる鈴木。文字は逆さまに書かれている。また、本のタイトルは幸福論であった。
「現場に本が落ちていたのは、事実かもしれませんね」
「同じ本が二冊か……」熊田は本を受け取る。印字は逆さま。表紙はない。背表紙からめくる。発行者も著者名もきちんと明記されていた。本をまじまじ観察するのは初めての体験だ、表紙の構造は紙面の束の上から被せ、糊付けされている。表紙が剥離できたならそれを反対に、糊を付け直せばこの奇怪な本は完成する。あるいは、正規に販売された書籍を利用し外側のカバーだけを作り、買い求めた本に張り替えたのか。「こちらはお預かりします」
「あの、なにかあったのでしょうか?」女性が店員の男性に目を合わせて尋ねた。
「ええ、まあ。この方が亡くなったので足取りを調べているのです」
「そうなんだ、怖い」不確かな事象を恐怖で丸め込む、簡易であり、考えなしの反応。
「ご協力感謝します」鈴木にこれ以上しゃべらせないために熊田はリセットする。三人は訪問から数分で店を後にした。
車中で鈴木がいう。「カレーが食べたくなりました」
種田は鈴木の発言を無視。「次はどちらへ、昼食ですか?」
「ナイスアシスト」
「署に戻る。鑑識の結果が知りたい」鈴木に取り合わない熊田は淡々と応じる。
「電話っていう便利な道具を使わないつもりですか、熊田さん」