コンテナガレージ

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アンブレラは黒く、赤く プロローグ1-1

「ここに決めます」

 僕は建物に出会った刹那、心を奪われた。都会の狭小ビルの一階、大通りから一本中に入った路面店舗。ピザ屋の名残は、張り出したガラス窓からお手製の石釜。通りに立つと作業の様子が見て取れる。しかし、僕が惹かれたのは、ここの部分ではなくて、入り口のドアの錆びつき具合とドアベルだった。

「まだ、ほかにもいくつか候補となる物件は用意させていただいておりますが」不動産屋の男は申し訳なさと嬉しさが共存したような顔で僕の決意を思いとどまらせる。数件を回る予定だったのだろう。好条件の物件は後半に紹介するつもりという算段か。勘違いをしている。お客の迷いのために舞い戻り、内見済みの物件に再び訪れる労力を惜しむ案内はむしろ、お客を逃がすと僕は考える。戻るのは迷っている証拠。不動産屋側の意図が物件を紹介し仲介料を頂くことにあるのならば、一日では決めかねるお客にありったけの情報を与え、時間を作り、離れ、見つめなおし、選択を仰ぐべき。しかし、目先の労力にばかり注力している。

「中を見させてください」僕は平たい端末を指先でいじる男に伝えた。

「あああっと、これは気づかないですみません」一拍遅れた男が仰々しく腰を折って手套を切り、一歩前に躍り出て鍵を開けた。「どうぞ」

 ベルは余韻が少なく、重く冷たい音色が短時間で響き終わる。店内は板張り。黒光りの板が年季を物語る。天井には、豪奢な金属の照明器具がぶら下がる。かつての色合いは、うっすらとした黒に覆われて面影はずいぶんと消えかかっているが、かつての輝きだけでも十分な存在感を放つ立ち振る舞いだ。多くのお客、人を照らした明かりはまだまだ現役を熱望している、僕にはそう映った。

「キッチンはこちらです」ドアを入って左手がキッチンとカウンター席。僕の立つ場所が、右手に取られた空間。ここにテーブルと椅子がかつて置かれていた。床には、長年蓄積した重みで所々に真四角の凹みがある。

 不動産屋に言われるまま、キッチンへ移動した。

「こちらはすべて前のオーナーが置いていかれた設備です。お客様には設備込みでお売りすることになります」ガラス窓のエリアに家庭用のガスコンロが一台、細い出入口を挟んで、鋳物のコンロと業務用のコンロが二台、二段の冷蔵、冷凍庫も並ぶ。カウンター側の足元にも冷蔵庫が一段並び、その上が作業台、調理スペースとなっている。

 両手の力を抜いて店と一体化する。空気は呼応し、空間も硬質な物質とも息遣いは僕のペースだ。黙っていることにしたのはいたずら心が芽生えたから。本気で不動産屋の男を困らせようと思っていない。

「手続きをお願いします」眠りから覚めた雰囲気で僕は男に告げる。男は入り口での仕草を再現した。タイムラグ。数回の瞬きの後に、抱えた黒革のかばんを探り、慌しく書類のファイルを僕に手渡した。まだ、疑っている眼差し。信じられない、初体験、ぐるりと目を回してもいた。今、考えるとブリキの人形みたいにレトロな動きだった。