「もういただいています」
「そうですか。ごちそうさまです」
「またのおこしを」出しそびれたお金を熊田に差し出すが彼が受け取るわけもなく、すたすたと駐車場の車に乗る。鈴木は自分の車に乗り込むと、エンジンをかけて先に出てしまった。
「これ受け取ってもらわないと困ります」助手席のドアを開けたまま熊田にお金を手渡そうとする。
「おごると言っているんだ、素直に受け取れ」
「借りを作りたくはないので受け取れません」
「先輩としては当然、払うべきだろう」
「誰がそう決めたのです?絶対ですか、何か決まりでもあるのですか?」
「慣例だ」
「私に慣例は不要です。これを」
「まったく、融通が利かない」熊田がしぶしぶ一枚の硬貨を受け取った。
「私が飲みもしないのに勝手にテーブルへ運ばれてくればおごられますけれど、これは私が飲みたくて飲んだ分の支払いです」
「ああ、もうわかったよ、それ以上いうな」
「鈴木さんは母親のところですか?」話題が急に変わるのが種田の特徴である。
「急になんだよ。午後から遺体の引き渡しでそろそろ自宅に戻っている頃だろうからな」
「やはり死なないと決め付けていますね」
「誰だってそうだろう」
「いいえ、多分私と……あの人も死を意識しています」走り出した車、運転席の熊田は種田がはっきりと名前を挙げなかったあの人を、思い浮かべていた。外は雨が止んで、むせ返っていた車内に窓からの冷涼な空気に侵入。季節の変わり目にまだ対応しきれない。いいや、対応などできはしない。
抗うな、任せてみよう。
声が聞こえた。はしゃぐ子供の声。
聞こえていなかったのは、少子化の影響ではない。
あなたの焦点が定まっていなかったに過ぎない。
子供が生まれれば子供を目にする機会も増えるのだから。