「理解しているみたいです。父親のことは死んでから口にしません、私に気を使って言わないようにしているだけかもしれませんね」
「お子さんに話を聞いても宜しいですか?」
「父親のことですか?」
「はい」
「……思い出させるのでそれはやめて下さい。まだ気持ちは散らかっていると思います」
話の最中、灰都が小走りで駆け寄り母親と種田の間に座り、ノートと教科書を広げる。「ここでやってもいい?」
「自分の部屋で勉強しなさい、今大事な話をしているんだから」
「なんでダメなの?」灰都は透き通った目で母親の顔を覗く。
「どうしても」
「我々はそろそろ帰ります」熊田は腰を上げる。
「おじさんたち、お母さんのお友達?」灰都が見上げて聞いた。
「友だちではありません」種田が通常の対応で少年に答える。二人は数秒切り離された世界を形成した、そうかと思うと街ですれ違う通行人のように他人の距離感に移行。野生動物の無言のやり取りのようだ。
「なにか気づいたことがあればご連絡下さい」熊田は帰り際、理知衣音に名刺を渡し種田を促してマンションを後にした。エントランスの自動ドアを抜け寒空の下に晒された時、後方のドアが開いて声が聞こえた。
「待って」灰都が上着も着ずに白い息を吐いている。「お父さんのことを聞きに来たんでしょう?」
「ああ、そうだけど。お母さんに聞いたのかい?」熊田はポケットに手を入れたまま質問する。
「ううん、お母さんには内緒。だって、お父さんのことは聞いちゃいけないんだ。でも、おじさんたちはお母さんじゃないから言ってもいいんだ」得意げに少年は小刻みに体を動かして話す。
「お父さんのことでなにか知ってることはないかな?その、死んでしまう前の」
「お父さんとね、約束してたんだF1を見せてくれるってさぁ。チケットが買えたの、前はうんと高くて買えなかったからお父さんお小遣いを貯めて、僕もお年玉も貯金したんだ、それで今度はF1が見られるぞって言ってたの」
「どこでチケットを買ったの?」
「お母さんには内緒だからお父さん、会社のパソコンでね、注文したの」少年は嬉しそうに小さな拳を口に当てる。「コンビニでチケットが買えたんだ。でも、お父さんは車でぶつかったんだ」
「取り寄せた資料にそのような記載はありません」種田は熊田の耳元に囁いた。
「チケットはどうしたんだい?」熊田が屈んで灰都と対等な目線で詳細を尋ねた。
「お母さんに見つかると怒られるから、僕がこっそりお父さんの服から取ったんだ。だめだよ、お母さんはこのこと知らないんだからさ。おじさんたち、約束してよね」
「約束するよ」
「お姉さんも」
「私も?」
「そうだよ、おじさんだけじゃあずるいじゃん」
「約束するわ」
「さむいさむい。さむいはいたい、いたいはくるま、くるまはやい、はやいはおそい」そう言って少年は自動ドアの中に吸い込まれていった。
「チケットですか。信じてもいいのでしょうか」種田が呟く。視線は上から見下ろすマンションに注がれてる。
「黙ってることも誰に教えられたのではなくて、自分で考えての行動だろう。それに秘密は絶対という信念も持ち合わせてるようだし、話が二転三転したりはしないだろう。母親の前で話さなかったのも彼なりの優しさ。一番気を使っているのは母親よりもむしろあの少年のほうかもしれん」
「やけに肩を持つんですね」
「一応、子供だったからな」
「私もです」
「本当か?」
「運転を代わりましょうか?」
「悪かった、謝るよ」