理知衣音は息子の灰都のお弁当を早朝から作り始めてかれこれ三十分が経とうとしていた。甘い卵焼きと唐揚げ、俵型のご飯に巻きつけた海苔、彩りと栄養を考えてほうれん草のおひたしに鰹節をふりかける。唐揚げは昨夜に味付けを済ませていたからあとは揚げるだけ。取り立てて手を掛けたと胸を張れる料理とは言えないけれど、合格点を息子はくれるだろうと淡い期待を抱きつつ、衣音は灰都を起こす。
「灰都、起きなさい」
「……う、ううううん」
「今日は遠足でしょう。遅れたらおいてかれるぞ」
ガバっと布団がめくられる。「何時!」
「七時半よ。ほら支度しないと遅れるんだから」
「ケンちゃんと今日だけ一緒に行く約束してんの」パジャマの灰都は寝癖まま、ベランダの柵の隙間から階下の公園を覗く。それから、ぱっと振り返って、布団の上にパジャマを脱ぎ散らかして枕元の服に着替えるのだった。いつもこうして張り切って学校に行ってくれればと、衣音は思う。あの人がいなくなってから私のためにしっかりと自覚を持った灰都に見えたが、ここ最近はまた子供がえりで私に甘える頻度が高い。
顔を洗った灰都と用意した朝食を食べ始めた。トーストにはたっぷりとバターが塗られている。
「バターいらない」灰都が一口食べると文句を言った。
「なんでよ、好きでしょう?」
「そのままでパンは食べるんだよ。学校でもみんなそうだもん、バターなんて塗らないんだ」
「じゃあ、明日からは自分でパンを焼くことね。ママだって忙しいんだから、食べたくないんならもう作らないから」あえてハードルを上げて、乗り越えられるか試してみる。越えられないなら低くして様子を見る。
「誰も食べないって、いってないじゃんか」頬を膨らませて唇を尖らせる灰都に理知が言う。
「はいこれお弁当、忘れないでね」
「中、見ていい?」ぱあっと灰都の表情がはれる。
「お昼になってからのお楽しみ」
「おにぎりじゃないよね?」
「さあ、どうでしょうか」
灰都は衣音よりも先に部屋を出た。小さな背中に不釣り合いなリュック。あの人が持っていたカバンを息子が背負っている。昨日、自分のリュックじゃなくて父親の物を彼は持って行くと主張した。子供には大きいし、持っていくものはお弁当とお菓子と水筒ぐらいで容量の三分の一にも満たない持ち物なのに頑なに持って行くときかないのだ。私は本当は反対だった。だってあれは形見で持ちだされて汚されるなんてはっきり言って考えたくもないのだった。もうこれより先は綺麗な記憶だけで生きて行きたいのに、不用意に外気にさらして汚して擦れて穴が開いてしまうなんて考えたくもないの。何度も説き伏せた、説明を繰り返した、大切なものだって。だってあれは私がプレゼントしたリュックだったからね。あの人がボロボロのカバンでいつも平然と現れるものだから、可哀想になって半ば押し付けるように送ったのは忘れもしない。人に笑われているあの人の姿が耐えられなかった。そう、私が絶えられなかったのだ。あの人はそんなことはまったく気にしていなくて、ただプレゼント自体に笑って喜んだのを覚えている。あの人は翌日そのカバンで私の前に現れてくれた。プレゼントされた場面を多くの人に見られていたのに、あげた側の私が動揺したのに、あの人はいつもの通り、遠くを見つめる眼差しだった。だから、だから、思い出のままに仕舞っておきたいの。現実に見えたら、あの人がいないと再確認してしまう。
「いってきます」歯切れの良い挨拶で灰都がニッコリと笑って出陣した。彼も戦っているのだ。あの人を背負って、彼がいない今を生きている。私は、わたしときたら。まったく不甲斐ない。教える立場なのに教えられるなんて。
ベランダから公園を眺めると人一倍リュックに押しつぶされそうな息子の姿が友だちと歩いて行った。雪が降ってきた。スキー場へはバスで向かい、板、ストック、ブーツは全てレンタルでスキー場で借りるらしい。なので、ああやって手ぶらで息子は楽しげに出て行った。私の頃は身長より長い板を抱え、ブーツを入れたリュックで登校したものだ。
あの人がいたら帰ってきた息子にどんな風に尋ねるのだろうか。遠足は楽しかったの?そんなふうにはおそらく聞かない、口下手な私をおしゃべりにさせる魔法で言葉なく寄り添っているだけなんだろう。
上手だったのだ、そう上手だった。
別の視点をみせてくれるのが。