コンテナガレージ

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ROTATING SKY 6-2

 男は微動だにしない。様子がおかしい、窓を開けてどけるように言おうとした刹那に、液体が目に飛び込んできた。咄嗟につぶったが対処が遅かった。

「うわっ、なによこれ」痛い、ヒリヒリと眼球を侵食するような痛み。男が動いた気配、体を掴もうと手を伸ばすが空を切るだけで手応えがない。次の動く気配は大きい、車が移動した?なりふりはかまっていられない。「すいません!どなたか近くいますか。助けてください、どなたかいませんか!」

 女性が声をかけた。「どうしました?」

「いきなり目に何かを入れられたみたいで」

「救急車を呼びますか?」

「ええ、お願いします。それと申し訳ありませんが、コンビニのトイレに連れていってください。目を洗いたいのです」女性に支えられて理知はトイレに急いだ。運良く、トイレは空いていたらしく、洗面台ですぐに液体を洗い流せたが、視界はまだぼんやりとして焦点が合わない。こんな時でも仕事が頭から離れないのは、今朝のことがあるからだろう。付き添ってくれている女性に携帯を操作してもらい会社の番号にダイヤルを頼んだ。

「もしもし、理知です……」上司に啖呵を切った手前、言い出しづらいのはもうこの際、考えないようにした。事情を説明する。上司が付き添いを了承。彼が私の身を案じて救急車を待つことになった。付き添ってくれた女性にまた手を引かれて車に戻ると大丈夫であること、上司が来ることを告げてしばらく一人になった。運転席、茫洋とした顔がミラーに映っている。視力が落ちるとこんなふうに世界が見えているかと思う。私はずっと視力が良い。

 コンコンと窓を叩く音。ビクリと体が飛び跳ねたのは無意識に体が守ろうとしたんだろう。

 上司がドアを開けて尋ねる。「大丈夫か?目は?見えているのか」

「なんとか。硫酸とかのたぐいではないようです。……午後からの勤務は無理みたいです」

「気にするな。怪我はだれにでもつきもの。救急車は?」

「もうそろそろ来る頃だと思います」

「本当に見えてるのか?これは何本だ」手袋の指がVの字を描く。

「二本」

「だれにやられたんだ?」

「スーツを着た男性で、隣に停まった車から降りてきてしばらくこっちを向いていたので、不審に思って窓を開けた瞬間に何かをかけられました」

「……警察に聞かれたのとは無関係か?」低い声で上司がさぐる。

「……わかりませんよ、そんなの。聞きたいのは、こっちです」涙声になった。あの時から泣かないと決めたのに一人で灰都と生きていくってそう決めたのに……。

 

 救急車のサイレンには酔ってしまう。

 三半規管を直接掴まれている感覚。

 体が重い。

 視界が更にぼやける。

 上司の掌が閉じる間際の最後の映像だった。

 

 鳥はどうして歌うんだろうか、仲間との交信、異性への求愛、それとも歌うのが好きだから?

 早朝のさえずりを日中、耳にしないのはやっぱり挨拶なんだろうか。おはよう、お前も生きていたかとサバイバル下の確認作業。

 町並みや住人が入れ替わる世界に山は不動で在り続ける。

 替えたり変わったり代えられたりは、しない。

 月の目印で方角の案内を知らず知らずに買って出て、知らん顔。

 なんでブレないのだろうか。選ばないから。それとも、他が目に入らないの?

 上限の振動、天井。躰の傾きは地面と並行、波に揺られているみたい。

 動かないと決めたのに、しまいには動いていて、安定を望んで停止したら不安定に投げ込まれた。

 もぎ取った競り合った末の勝利ではないのに、なんで私だけって思っていた。

 競争を要求されてる?

 取り合いに割り込む勇気やモチベーションはない、喉はカラカラ。

 そう。悲しい私で幸せな奴らを無知で笑い転げる安穏とした笑顔を塗りつぶしていたんだ。

 隠し絵みたいに上書きされたの。

 抱きしめてあげる、悲観的でうずくまって膝を抱えた私を後ろからきつく。

 明かりが見えてきた。

 焦点がマイナスに合っていたから写真がいつもピンぼけで撮れていたの。さっきの景色みたいに。

 目が開いた。それって、私の意志?

 見たいの?ぼやけているのに。

 私はわたしでいたい、もう見て見ぬふりは止めたの。

 

 まるで歯医者が虫歯を治しているみたい。

 

 うまく息が吸えない。口の周りに違和感。昨日は十分眠ったのに……。