コンテナガレージ

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飛ぶための羽と存在の掌握5-2

 その日は疲弊した体でも精神が興奮してなかなか寝付けない。隣で灰都の寝息がリフレイン。眠れないことに恐怖を抱いた。寝ないと明日は辛い、でも意識は薄らいでいかない。

 寝室を出て居間に座る。窓をそっと開けると月明かりが見えた、星も出ている。眠れないあれこれを、想像を巡らせると、一つ思い当たることに行き着いた。

 通り魔に襲われた時の恐怖がまだ私に残留してるんだ。犯人は若い男だったと思う。会社の帰り、次の日は休みで閉店間際の本屋でお気に入りの作家の新刊を携えてバスを待っていた。

 会社に入り、仕事も任されるようになった頃で重圧と迫り来る期限やめまぐるしいスピード感にやっと慣れて、通勤の景色も目新しさは薄らいでいた。

 街路樹から葉が落ち夕方に降った雨で地面は濡れて、街道の明かりがてらてらと落ち葉の隙間で反射していた。駅前のバス停、列の最後尾、文庫本を片手に耳にイヤホンをつけ携帯でFMラジオを聞いていたから、周囲の音は微かにしか聞こえなかった。

 あんなことがあったのに。

 人の視線が得意ではない私は振り返る並んだ人を見返すことができなかった。どうせすぐに逸らされて前を向くだろうし、私はわたしで物語の導入部を噛み締めるように読んでいたために視線を本から外すなんてしたくもなかった。

 まただ。

 今度は、体の向きまで変わっている。視界の余白で靴の先が百二十度移動していた。ラジオの女性DJは、海外から英語交じりで曲を紹介、日本語のアクセントが時折英語訛りに変わる彼女はネイティブなのだろうと不確かな推測で半ば聞き流すように耳から周囲を遮断する目的で聞いていた。そこからの記憶は断片的で、コマ送りか、一時停止、あるいは不鮮明な映像しか残っていなかった。

 乱れる列にふとあげた視線、家路の最短ルートを捨てて、さんざんバラバラに霧散する人々。 

 状況を把握するために振り返ったら、ペンキのようにべっとりとした匂い立つ血が芸術性を帯びて通り魔の顔に付着。

 すっかり日は落ちていたが、明かりで相手の半面が半月みたい浮かんでいた。後ずさり。文庫本を胸に抱える。

 迫る一歩。

 後退。

 また前進。

 後退。

 こんな時マスコミは、刃物の形状を報道する。登山ナイフとか文化包丁とかバタフライナイフとか。でも、どこで手に入れたかは、売られているのだから危険だと知ってるはずである。そんなものは世界に溢れてる。使い方が重要で、誤った使用法をないがしろにしてきたから、こうやって私に向けられてるのだ。向けられても文句は言えないかも。

 ロータリーと歩道の段差で足をとられた。植物を切り刻んだり動物を食すために皮を剥いだり、人だけが諸刃の剣の犠牲ならないなんておかしな話だ。怪我をしないように柄を取り付けて振りかざしていたんだ、たまにはこんな犠牲がガス抜きとして機能してる。殺されそうなのにそう思ってしまった。

 一刃。

 斜めに刃がきらめいた。

 咄嗟に本で刃を防いだ。

 痛みが走る。

 指先から血が垂れる。それでも痛みは恐怖で閉じ込めてあるから、のた打ち回るほどではない。次の一撃のほうが恐ろしい。

 二刃。今度は突き刺してきた。これも本で応戦。

 容赦なく、蹴りが指先を跳ねあげた。唯一の頼みが離れていく。目を合わせられない、合わせたら……。

 三刃。四つん這いでタクシーのテールランプの淡い光。背中が切り裂かれた。雄叫びが聞こえる。後ろの人物が出しているんだろうけど、水中にいるみたいでくぐもってモゴモゴと雑音が交じる。

 すると、せきを切ったように音声と映像が回復した。

 私は倒れこんだ。

 冷たい地面。

 地面に寝っ転がったのはいつぶりだろうか。水分が蒸発する匂いが懐かしい。背中に激しい痛み。皮膚を剥がされて風を送られているみたいだ。何がどうなったのだろう。

 数人が駆け寄ってきた、大丈夫かと尋ねるのは意識を失わせないための措置かそれとも傷の具合を案じた問い掛けか。後者だったら、そっとしておいてほしい。死にはしない。それぐらいは自分がよく知ってる。

 地面にうつ伏せ、顔が向いた視界に暴れる人が同じく地面に押し付けられている。目が霞んできた。

 確保……うっすらと聞こえた。

 また音がなくなっていく。

 けれど、今度は眠りに落ちる時に似ている。

 冷たくて気持ちいい。

 躰が微かに揺れる。

 固くて冷たい地面に躰がめり込んだ。

 土に還るとはもしかするとこんな気分なんだろう。