「鈴木、救急車だ」リビングのテーブルに突っ伏する理知衣音が視界に飛び込んできた。室内は、血にまみれている。出血部位は手首、自殺を図った模様。鈴木は動揺を取り消して救急に連絡を入れた。
駆け寄る熊田はすでに両手が血まみれ、紺の靴下はどす黒く、染まりつつある。
息子はこれを見たのだろう。誰にも見られたくはなかったのかもしれない。
恥ずかしかったのではなくて、そっとしておいて欲しかった。落ち着くまで傍に一人でいたかった。母親を守るのは自分だと父親が亡くなって、自覚していたのかも。守れなかった不甲斐なさと、憤りが聖域に土足で踏み込もうとする警察を拒んだ。死んでしまったと思ったのだろう。自分が悪いのだと責めるのが目に見えている。子供の頃はだれだって自分がいけないと思うのだ。自分が我慢をすれば、息を殺せば、手を挙げなければ、わがままを言わなければ、家庭は世間は人との関係は円満に流れていくと錯覚している。親はその思いを汲み取らなくてはいけない。忙しさにかまけていても切れそうな糸が差し出されたならば掴んできつく結ばなくては。
熊田の対応から、また血の量からも理知衣音は助からないと鈴木は判断した。玄関では少年の訴えるような瞳が闇夜の動物みたいに光っていた。鈴木はドアを閉めるようにジェスチャーで種田に伝えた。
「もう駄目でしょうか?」鈴木が訊いた。
「おそらくな。これで何も聞けなくなった」
舞い散ったはずの木の葉が季節外れでリビングの窓に登場。
「理知衣音が犯人だったのでしょうか?」熊田はそっと見開かれた理知の目を閉じた。
「……自殺ということならば、無関係とは考え難い。まあ、この家から証拠が見つかるかもしれないし、……そうはいかないのかもしれない」
その後、救急車で理知衣音が運ばれた。
種田と灰都が付き添った。
灰都は精悍な顔つきで、ただただ母親の顔を見つめる。ナイフは鈴木が回収し、ハンカチに包んで懐に隠していた。
陽が落ち始めている。鈴木たちは、鑑識を呼び寄せた。鑑識の登場までに熊田と鈴木は、室内の捜索に時間を費やす。鈴木が思うに、理知衣音が一連の事件、つまり、不来回生と触井園京子を殺害した犯人であるとしても、犯行に及んだ理由が明確でない今、証拠を探しようがない。訪問先で彼女が手首を切っていたのは自分たちが真相に近づいていたからではないだろうか。もしも、見当違いの場所を捜査し続けていたなら、彼女は血まみれにはなっていなかった。
すべて仮定の話。でもや、もしもは禁句。
鈴木の読みは的中し、部屋の捜索は空振りに終わった。