「あっと、そうですね、どうしよう」秘書は胸元のカバンをわずかに抱きしめ、手を軽く握った。
「強制はしません。必要なら車を借りに行くまでのことです」
「嫌だと言っているのはないんです、その……」
「あなたの拒否であなたを貶めたり上司に告げ口をして、あなたを降格させようなんて思ってません」
「はい、すいません」
「謝らないで。そこまで考えが及ばなかった私が悪いのよ。忘れて」
秘書は申し訳なさそうに頭を下げて、アイラの視界から切れた。私が悪い、という台詞は、時間が経つにつれてあの人の中で膨らむだろう。厭味をこめた言葉に変換してしまうのだ。面倒な距離感。京都の言葉が確かこのような表面的な使い回しを多用すると聞いたことがあった。ただし、それも状況と場面、対象者がすべてだろう。私は大切な上客で機嫌を損ねてはならない、と秘書は自然に思いを膨らます。淡白で白黒はっきりした性質が大多数の場所で生きてきたからか、ねっとりとした人物は体質に合わない、そう肌で感じる。
コーヒーを飲み干し、自販機に寄り添うゴミ箱に缶を投入、会議が行われた部屋に足を踏み入れた。
室内にはラップトップのキーボードで文字を打つ山遂しか見当たらない。部屋には隠れられそうな場所、死角になる場所は存在しない。アイラは山遂に秘書の所在を尋ねた。
「秘書の方は?」ドアの開閉にも気がつかないほど、山遂は集中していたようだ、アイラの声で現実に戻る。
彼は前方、それから後方を見渡して、しばらく時を止めた。「ああ、あの、子供を迎えに行ったんです。保育園から電話があったみたいで、もし仕事が抜けられそうだったら時間をくれないかって言われて」
「だから、断ったんだ……。今日はもう私、解放されたんでしょう?」
「観光ならば案内しますけど」背もたれを右手で掴む山遂は眉を上げて、気前よく応じる。
「必要ないわ。明日からのスケジュールはメールで送ってください。今日のような不毛な会合は可能な限り、いいえ、あなたが無理をしない範囲で減らしてくれると助かります」
「すいません、今日は顔合わせが主な目的でした。軽率でした、お伝えしておけばよかったです」
「どうか落ち込まないで、次回のミスを回避してください」