コンテナガレージ

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エピローグ1-3

妙に落ち着いている、もしかすれば、少なからずどこかで衝動を認めているのではないのか、と思い始めた私。だが、もう一度言うが、気づいた時には手遅れ。出来事は終わって、状況が克明に見えてくるものなのだ。渦中にいる間は、周囲と同化、目を凝らしたとしても、境界線は曖昧。何故、こんなことを書き綴っているのか、そういった疑問も読んだ人は抱くだろう。答えは簡単。これはおそらく誰にも読まれずに処分される、存在すらなかったことにされる。妄想かもしれないし、幻想かも、あるいはたんなる被害妄想かもしれない。だが、現実に起きた身の回りの現象は、私が想像するに、この結論が最も適合する展開なのだ。では、読まれないのに、どうして書くのだろう、また一つ疑問が浮かび上がる。可能な限り拡散を施した文章は、全力で抹消の対処が襲い掛かるはずだ。これが誰かの目に、たとえば取り締まる権限、そういった役割の人物に手に渡れば、世間に明るみになるかもしれない。だが、その権限を取り持つ部署や役職、管轄や組織が私を陥れる人物たちと手を組んでいない、とは言い切れないのだから、この文章を読まれる確立はかなり低い、と考えている。当然に、それらは視野に入れている。届けばいい、その程度、気休めの文章である。死を訴える文章なら、そこらじゅうに溢れているから、あえて淡々と書き綴る作戦を取ったまで。普段はこういった口調では話した機会もゼロに等しい。

 思い当たらない、頼んだ記憶がまったくない商品が届き始めたのは、臨時バスの運転を始めた時期と一致すると、過去を回想。モデルガンは小さい頃に遊んだ記憶があるが、それほどの好きではなかった。友達が持っているから、それだけの理由で半ば強制的にもたされたというだけのこと。玉を狙った対象物へ当てるだけの行為に意味を見出せず、むなしさを覚えて止めてしまい、離れた。それから触ってもいなかった。

 人との接触はほとんど職場の人間、それも出社と休憩、退出に合わせた数十分の時間に多大な影響を私は受けていたのか。休日は路線の対処に忙しかった。英語に中国語、韓国語のアナウンスに合わせて、自主的に勉強に取り掛かる日々。いつかやらなければ、という強迫に頼らないために、押し付けられない自主性を重んじた、まだ軽い腰を持ち上げて日常会話、バス内で想定されるシーンを中心にしゃべれなくても相手の話している内容ぐらいは把握できるように、流れるアナウンスの音声データを持ち出し、自宅でとりあえず日常的に耳を慣れさせる目的で流した。おかしくなったのはそのあたりから。