コンテナガレージ

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プロローグ1-2

 「米」が消えたのである。

 海外と参画交渉の末に米の輸出入の自由化に関する関税の撤廃が認められ、海外から安価で良質な米が市場に出回るようになった。当初、日本は海外の米に日本の品質が劣るはずがない、負けるはずがない、覇気に満ちた意気込みで対抗心を燃やしていた。しかし、月日が流れるにつれ、海外の米を食卓で口にすることによって、日本のそれと遜色がなく、当然のごとくマイナス面を予期、期待を抱いて味を確かめた無意識の摂取が作用したのか、海外米に対する評価はうなぎのぼり。好評を得て、巷の時勢に乗り、瞬く間に日本の市場は海外米に占拠された。

 当然に、僕の店でも海外の安価な米を試してみた。提供前に、とりあえずは試食用にと業者が持ち込んだものである。お金を出して買ったのではない。僕は日本への贔屓はまったく持ち合わせていない。むしろ、良質ならばお客への提供は大いに歓迎する。だが、それはお客の好みや要求によって異なる選択だ。

 こちらが単に良質で安価、経営面の負担を減らす、そういった店側の意見は長期的な展開には不向き。しかも栄養面の体感がまだはっきり現れていない間は当面、お客への提供は見送ると店長は決めていた。成分表示は合格点を勝ち取り、輸出しているのだから、さらに言うと輸出国ではそれらを食している揺るがない現実が存在しているのだから、害悪を及ぼすはずはない。考え付く妥当なこれらの意見を当然に理解し、納得もしている。

 だが、影響というのは表面的な味や成分、栄養の良し悪しだけでは言い切れないはずだ。これは、日本人の米食に話は遡る。米の摂取には家庭環境が米を食の中心に据えてきた生活が、受け継がれたのである。現に朝食のご飯はパン食に追い抜かれたという統計が出されたほどだ。しかしながら、まだ米は根強く心理に働く。変化を嫌う中年、年配、高齢者にいたってはその反応は顕著だろう。中には、新しい者に挑戦する人物もいるが、それらはいくつかの選択肢を自由に選べる資金的な猶予と時間と持ち合わせて、結局はご飯に戻るための味や食感の違いを感じ取りつつ、自身だけでは見出せなくなった希少性と浸透性の表出を願ってのことだろう。米がなくなれば、やはり悲観し、目移りを悔やんで、後悔するに違いない。