コンテナガレージ

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予期せぬ昼食は受け入れられるか?2-2

 大豆へのバッシングは二誌目のほうが、深く取り扱っていた。店長は、読み込みの途中で席を立った。

 降り口に向かい、改札を目指して、大豆に関する批判の箇所を思い浮かべた。その前に、まずは大豆がどのような食品に利用されているかを挙げてみることにする。

 味噌やしょうゆ、納豆に枝豆、月曜に作った豆腐など、食卓には欠かすことのできないもの。健康被害というものは、まるで聞いたためしがないし、何故今になってという疑問も湧く。とても健康によい食品、というイメージがかなり強い。

 店長は肌が引き締まる屋外に出て、自宅に着くまで考察をやめなかったが、情報不足のためか大豆の負の要素をつむぎ出すことはできなかった。

 自宅に戻り、上着を着た状態で暖房を入れる、照明は暗く、手元を照らすブックライトをつけて、新聞の続きを読む。一旦、火にかけた薬缶をコンロから下して、コーヒーを入れた。それをもってソファに座る。

 明らかになった事実と新聞の主張は、大豆は食べるに値しない食品で、加工品つまり味噌やしょうゆ、豆腐などであれば、摂取は許され、枝豆は忌避の対象となる。これらは、経典に残された教えに基づく主張であり、現在までに公な発表を控えていたのは、何人も差別するなかれ、という教えに従っているのか。今回の忌避は教えに矛盾するのではないのかと批判には、差別は教えを信じる者に対する施しであり、他の教えに傾いた者を救済するような言葉は経典には残されていない、そう書かれていた。新聞の意見は、おおむね彼らの大豆忌避発言を擁護する内容であった。

 小麦のイメージアップと大豆の地位陥落をもくろむ情報操作が、妥当な見解に思える。米の国内における絶対的に許された地位の保守は、市場の狭さと特殊性にある。粘り気があり、甘みと粒の大きさ、噛み応え、各種料理の適応度は、外国産の米では代用に至らない、そういった現状に市場が守られた。しかし、だからといって、国民のすべてが米の重要性、食卓におけるウエイトを高く設定しているのではなかった。数年前にパン食は米食を追い抜いていたのである。米の必要性は伝統や慣習、行事に付帯するためのいわば、飾りのような習慣だと捉えれば、小麦の生活に切り替えるべきなのだろう。ただ、あからさまな習慣の変革に付き物の反発を避けるためには、緩やかな移行が新参者の浸透には欠かせない。