コンテナガレージ

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予期せぬ昼食は受け入れられるか?2-3

 店長はコーヒーを一口含むと上着を脱いだ。やっと温度が上昇室内、態勢を変えてソファに横になる。

 二誌目を畳み、三誌目を手に取る。こちらには、生育環境の意見が数多く散見された。要約すると、このようなことだろう。

 競合してしまう大豆と小麦の生育環境は相容れない農作物に姿を変え、そこには世間の喧騒が現れていた。米の生産者が給田を再稼動させて、小麦、大豆生産に適していた土地が見つからない、というのが大豆と小麦の需要に追いつかない国内市場の悲鳴である。当然に、高額な白米を諦めた市民は代替品に国内の食物を選びたがる。海外産が国内市場に出回る量や価格においても国産を凌ぐ低価格を実現はしているが、品質面での評価は、いまひとつ合格点、手に取るまでの手軽さには行き着いてないらしい。これは、アンケート調査による新聞の統計による。

 新聞を胸において、天井を眺めた。人は自国の農産物について無意識に品質が高く、安全であると認識をしているのか。あまりにも安易で過去に依存した選択とも感じる。天井がドント、二回響いた。上階の人物はおそらく下階に伝達された音を認識してはいないのだろうから、こちらが腹を立てることもない。無意識な行動は、改めて見返す機会を自らの用意によって持たないと、置かれた状況の理解に及ばない。僕の言語は通じるだろう、直接上階の住人に伝える、あるいは管理人を通して伝えてもらう。それでも、おそらく相手の反発が、予測される行動の大半だろう。あなたはこうですよといわれても人は真に受けない。だから、さらに上階の人物に物音を立ててもらえれば、僕の体感が伝わるはずだ。

 要するに周囲と自身の対環境は、言語と体感による理解が望ましいということ。

 起き上がって胸の新聞に再度、全体に目を通したが、めぼしい情報、自分にとっての置き換えや考えに値する情報は何も書かれてはいなかった。この紙片から情報を得ようとする人たちは、これらから携わる仕事の利益と損失に関わる情報を逃さぬように毎日情報をせっせと取得に励むのか。結果のみを扱えなければ、意味がないのに。過去の情報で掲載は時間が過ぎた以前の出来事。だから、新聞を読んでいるから、読んでいないから、という枠組みでの判別は無意味な取り組みに思える。 

 四誌目に手を伸ばす、最後の一紙。大豆の安全性、健康被害は大量摂取により発現した稀なケース、そういった主張である。この新聞は表面的な情報の掲載が大半で、あまり個別、先鋭的な攻撃を受けやすい表現は控えて書いてあった。