コンテナガレージ

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鹿追う者は珈琲を見ず 9-3

 煙草を一本消費する。部屋は全室禁煙、ホテル内も同様にいわゆる羽を伸ばすリゾートとは一線を画した、いわばエコロジー寄りの宿泊施設だ。動物たちの生活圏内に生態管理を目的に作られた保護管理区域に寝泊りをするようなものか、ここだと森に断った滞在なのだろう、ここら一体の主は男鹿山の裾野を覆う森林に思える。
 気を引き締める、締める帯など巻いてはいないのに、靴紐ならば解けない飾りの革靴のそれをっ、解いてっ、再び結び直す。あいた、頭を打った。距離感覚がつかめない、シートを目一杯下げたのにハンドルにしたたか額を打ち付けた。
 ドアはどうやって開いた?利用者は僕が一番手だったはずだ、まさかフロントの兎洞が嘘の報告をしたとでも?まさか、いやいやすべて疑ってかかるべきだろう。特殊メイクみたいに皮膚が伸びる死体は何かしらトリックが隠されてるに違いないのだし、そうでなければ刑事の僕が茫然自失となるほど目を白黒させることがあってたまるもんか。……日井田さんの前でなかったのは運が良かった、ふがいない姿を見せてはまた株が下がってしまう。しっかりしろ、ここで一発軽快に事件のなぞを紐解けば、多少なりともあの人の僕に対する見方は変わる、か、もぉ?「うああああ、あちゃーあ、やってしまった」、鈴木は咥え煙草の灰がぼとり崩れ落ちた太ももを慌てて払った。驚いてばっかりだ。
 結婚相手に求めるあの人の条件は一体なんなんだろう。鈴木は本分をあっさり忘れる。室田祥江の発言が石の通路が靴音を吸収してくれてたおかげと変に息が切れた呼吸を整えて喫茶店入り口の脇で壁に手を突いて休むあのとき、そっくりの彼女を小さく縮めた少女を不用意に見てしまったのが、押し込めた思慕に再び小枝から火がついたんだろう。身を引く、一度は人のものとなった彼女は二度と性格上二度目は万に、いいや限りなくゼロに漸近した可能性なのさ。……だからかも、しれない。非現実的な数値を見せられて開き直った死をも恐れぬ振り切った根拠なき自信。
 もう一度灰が落ちて、やっと鈴木は我に帰った。思い出さないでいてくれよ、と願いつつドアを閉める。
 驚きを上手くきっかけに、張りついた腰と想像を引き剥がした。

鹿追う者は珈琲を見ず 9-2

 腕輪型の端末を翳して開錠する仕組み、利用者がフロントに一度持ち帰って次の利用者に手渡す。鍵が特殊なのか、僕らが使用する携帯端末と形状は若干異なるが昨年発売された海外メーカー、オレンジマークが有名な製品とコンセプトはかぶるが、端末の通信機能は兎洞曰く『ひかりいろり』の趣旨を逸脱してしまうため使用に制限を設けた。ただしお客様の身体異常と施設内の緊急退避命令のアラームにかぎり開錠の許可が下り自動的にドアが開く。不完全なシステム、あるいは不安定に見せかけた芝居。二年前に問題視された半開きのドアについてシステム上の不具合と利用者の不適切な利用に意見は落ち着いた。要因は明瞭、システム開発元は『ひかりやかた』のグループ傘下の企業に属する。目の上のたんこぶである経営母体は親戚筋の失態を叩くわけにもゆかず、死体の不可解な状態と捜査の進捗状況をつぶさに観察と警戒を怠たることを惜しまず、現在のあやふや不誠実な着地点に至る、そう言い切った。鈴木は入室前にでかでかと心配されるほど三度くしゃみを撒き散らした。身だしなみの象徴、ハンカチをいつも持ち歩くしかも予備にもう一枚は上着に忍ばせてある。たまに粘液がこびりつくことが会ってそうであるならティッシュを予備の代わりに持てばと言われることにはそこは男たる者、変なプライドが意地を張らせる。
 息が詰まった。
 室内に釘づけ、目を離す理由は対象物を他にありはしない。その場を離れフロントに帰還する兎洞のウエーブのかかった髪がわずかに戦いだ。天窓が開いてるのか、直後めまぐるしく意識が回り始めた、僕は職務を思い出し颯爽室内に飛び込んだ。
 遺体。今度は右半分が潰れされていた、写真と現物とではこうも生々しい生き物の露出した肌の印象に差が現れるのか。慣れていたはずが、喉を駆け上がる胃酸を飲み込む。変装用特殊メイクをはがす正体を明かす場面の伸びきった肌の質感、額、目、頬に鼻、口。
 囲炉裏の右手だった。またもや忘我に誘われて、現実に帰る、時間が飛び飛びに感じられる。駆け寄るわけを思い出す、頭上を見やった。天窓は閉じきる。羽目殺しだ、二年前も入念な調査を行って、いいや、確認は必要だろう。あれから密かに細工を施したとも限らない。だがしかし、その前にこの人物はどこから入り、何が要因で二年前と同様、半身をつぶされたのだろう。警察を呼ばないと、焦慮の色が濃く胸中に染み出す。自分が警察ではないか、通報に慌てた右手は胸ポケットの警察手帳を掴んで我に返る。
「フロントに連絡をそれからそれから地元の警察にも支配人をここへ、宿泊客には理由をつけて『ひかりいろり』の利用を断るように……」、声に出すと幾分落ち着いた。支配人の到着を待って彼に現場の見張りを頼み、僕は日井田さんを呼びに走った、という流れだ。通路に打音は響いてたから彫刻家安部は熊の像につきっ切りであったと思われる。

鹿追う者は珈琲を見ず 9-1

 美弥都へ解説をお願いに上がる資格をまず僕自身一挙にめまぐるしく流れ、駆け抜けたこの数時間をまとめあげて漸く話を持ちかける、第一のステップに足をかけられる。地下駐車場に停めた自家用車の運転席、見送る警察車両が走り去った。石が跳ね返す走行、エンジン音のくぐもった音質を閉じた視界に感じ取る。……戻るとするか、鈴木はわざと踏み外す、まだ浅い記憶の底へ流れた。
 
 かんかん、かつん、かつん、彫刻家の安部が西側の南北に伸びる通路にいた。思いついた脱出方法を確かめに起き抜けの寝ぼけ眼の朦朧とした意識にも拘らず(僕にしては)受話器を取りフロントに『ひかりやかた』の開錠をお願いしたのだ。夢で見た光景を忘れてしまわないうちに、寝癖もかまわずもちろん髭も剃っていない。歯磨きだけはエチケットとしてそれでも手早く済ませ仕事着の着古したスーツに袖を通した。焦りとズボンは最悪の相性、すっかり忘れて僕はバスルームから片足立ちに通路にそして壁に体を一度預けて持ち直したかに思えたバランスが、差し込んだ右足側に体重を傾けたら、そのまままだ体温の残るダブルベッドにひっくり返った。関係ないことだこれは、瑣末なことこそ良く覚えて思い出せるのはいかがなものか、ああこうして付き合ってる間に記憶はどんどんかすれ薄れる。さあさあ、気合を入れ直す。
 気合は入れるもので直すとそれは一定時間維持される、あるいは意識的にするような類の現象、いや行動、うんいや、動機なのだろうか。はい、そこまで。ロリポップが進路ふさぐストップをかけた。わかっています。続き、続き、鈴木は思い出す。
 一階の『ひかりいろり』の前で兎洞桃涸が出迎えてくれた、思い過ごし、卑下することもなかったんだ。無理やり宿泊をねだったお客たちは誰一人この部屋の利用を申請、予約をしていないと彼女から告げられる。二年前の事件発生の同日に宿泊を希望する、自分ならば興味本位が勝って兎に角現状を目に焼き付け土産話のひとつにでもと企む、だってそうではないと融通をホテルに聞かせた理由は説明がつかないおかしな言動となってしまうんだし。まあ、しかしなにより気兼ねなく時間を気にせず室内を調べることは今日に限ってはできそうだ、僕は兎洞に、丸まる利用開始から閉鎖までの貸切を希望した。もしお客様が利用を願い出たらそのときには権利を譲ることを約束してくだされば、こちらとしては問題はない。彼女のどこに欠点があるのか、合点がいかない、確かそのときに感じた。支配人山城は彼女たちの不手際をあらかじめこちらに到着し部屋に案内をするときにそっと打ち明けたのだった。言われてみるとフロントには似つかわしくない分厚い辞書のような記入帳が幅を利かせいたのを覚えてる。あれは業務記録、日誌というらしい。従業員は二年前と入れ替わりと増減はないそうだから、手がかりになるかもしれない。当時も調べているだろうが。

鹿追う者は珈琲を見ず 8

 八月六・七・八日
 仕掛け罠、大きな落とし穴は協議の末断腸の思いで捜索を断念、捜索隊数十名(ほとんど地元の猟師)は山を下りた。皆の関心は私の三日前の所業が気に食わなかったらしく、あることないことを手当たりしだい私にぶつけました。ひどく惨めな想いでしょうに、私はへっちゃらで二度目の聴取を解放されましたの。その日は雨が降ってやみ、傘を差しては影でほくそえみ太陽の影に隠すんですから、濡れてしまえと手渡された傘は帰り道の形ばかりのバス停その朽ち果てそうな板張りの小屋に『どうぞ御自由にお持ち帰りください』日記帖の一紙を巻きつけて両手に自由を与えた。
 前の日、山に続く人の流れに私も参加の要請が下った、振り返ると私はそのとき容疑者の化けの皮をはがしてやろう、糊付けした皮膚との隙間を浮いた傍からがめくってしまうんだ、彼らの思惑を履き違えていたようでした。まだ頭はぼんやり煙が蔓延してるのでしょうか、なんとも朝方の夢現に日が昇ろうと日が落ちようと所構わずはっきりものが考えられませんでしたから、しょうがないのでしょう。山へは休みの度に登り下りの道、仮装に身を包む人たちの歩き道は足元が見えた、明るいと目印なしに歩ける、道を外れ驚かれた。天辺と麓を彼らとやってのけた。大穴、窪みへは途中の道を笹薮を分け入る先に朝と昼も夜を抱える口が出迎える。生き物が寄り付かないぞ、気配が消えた、危険な目に遇っては遅いのでしょう、嗅覚は鋭くて私たちなどとは比べるのが憚られるほど生き物の一生を穴を見落としたら、失うのです。二人の、私を追いかけた人たちの荷物が穴の縁に置かれていたそうです。よもすがら捜索は続いたとききました。
 前の日のもう一つ前。二人を見なかったか、部屋を訪ねる人たちは凄みを利かせた形相が張り付いてしまってたのです、一様に仮面を仕立てて顔を覆うのでした。自室に篭る私の生活ぶりは皆さんに問いかけて答えは聞けるはずです、私は張り付く二人が姿をくらました正確なときを訊かれようと、白や黒の方々はあなたたちも含めいくつ世の中にいらっしゃるのか、お考えください。さすれば訪問はどれほど礼節に反した態度でありましょうか。重々お考えくださいませ、そう追い返した。
 穴倉へ部屋で潰れた方も監視のお二人も行かれたのでしょう。世の人は憂いておられるのかしら、それともお似合いでしょうよ運命だったのですから、と山と生き物と私たちの関係を感じられたか。悪しき心、こちらではかまわれる、喜ばしいでしょうに。三日分を一気に書きました。覚えていられたようです、仕事ではこうはまいりません。最後の行に行き着き、これにて。〆