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鯨行ケバ水濁ル 梟飛ベバ毛落ツル 8-1

「続き。見逃すとしても重要度は低いでしょうから最後に書きまして、ちょうこく家の安部さんは父親に国際的なちょこく家安部明をもつ芸じゅつ一家に育ったサラブレッドでした。紫綬褒章人間国宝に推薦されながら断ったことで有名、日井田さんはご存知ありませんから付け加えました。世間で知らない人のほうが少ないだろうと、芸じゅつ家、いわゆるアーティストでしょうね、先ごろのオークションでは生存する現役の芸じゅつ家で最高額の約百億ドルの値が安部さんの父、明氏につけられました。それと比較をするのは正直気が引けてしまうほど安部さんの知名度は一般にはまだ知られいません。彼女の作品は認められてはいますが、はい、お察しのとおり親の七光りや顔立ちが人気を支えている、と今ひとつ評価を得られないのですね。
 三列目の着手に美弥都は取り掛かる、漸く終わりが見えた。今日を目処に明日の金曜を予備日に据える、何事においても予定は狂うきまりなのだ。彼女は先手を打ち、開店時間を早めて店に立った。ところが、動きは筒抜け、カウンターに支配人の山城と室田幸江がひとつ椅子を空けて座る。折り入って相談があると二人から持ちかけられた。山城は開店前に一度顔を出し時間が出来次第、と予約を取り付けて引き下がった。室田はというと、こちらも開店前、山城から二つ目の豆に取り掛かる頃だ、席に座るなり暇そうに見えた美弥都に一方的にまくし立てたのである。そこへ廊下に漏れる騒々しさを耳に仕事を抜け出す山城が遠慮気味に席に着いた、という状況である。時刻は開店時間から三分が過ぎた。
「あーあ面倒。ねえ、どうしてくれる?」室田は一段上の立場から物をどうやら言っているらしい。
「虚言と撥ね付けを食らう、反論に適う回答は不保持。よって私は言われるがままに甘んじて受け取りますでしょうか」
「ずいぶんな余裕」鼻から息を漏らす室田。「置かれた状況を誤認できるとは見上げた根性というか、執念というか、母性というかね」
 山城は切り出す機会を窺う、せわしなく組んだ指が擦りあうことから彼は時間を捻出して仕事を離れたのだろう。室田は山城に感情の権化そのもの目線を向け、衝突の反動を利用しそっぽを向く。なまめかしい素足が組まれる、露出度が高い。黒いスカートが覗くも体表面を覆う機能は最小限に留まっている。通気性及び機能性を追い求めた結果とは思えない。なぜ肌を晒すのか、という問いには履き心地など『快適』を型どおりに言う場面が想像される、声を押し込めて。美弥都は年中パンツを履く、ほぼ仕事着と普段着は同一と考えていい、着飾ることには興味を持たずに生きる、逸れは結婚生活であろうと育児に追われた末の諦めではない。まただ、また、まだこうして過去が付き纏うか。

鯨行ケバ水濁ル 梟飛ベバ毛落ツル 7

業務日誌 八月十一日 担当<遠矢来緋>


 背中は一様に丸い。応援要請、増員された捜索隊はホテルを林を山を後にする。
 部屋にはお子様の着替えがそのまま残されておりました、囲炉裏にへたり込む着用していた衣服が見つかりましたので裸体を晒して捜索の範囲外へ足を運ぶなどは到底考え難い、警察からもれ聞こえる声をしたためました。
 あっさり正午を皮切りに捜索打ち切りの旨が私たち係員に報告されました。
 業務日誌は一段落ついた代わり代わりの数分の休憩を利用しペンを執ります。
 一報を聞いた予約のお客様から(数名ですが)キャンセルの意思表示を受け、了承しました。キャンセル時に発生する負担金を今回はホテル側の責任と捉え、宿泊日前日のキャンセル料は無償とさせていただきました、支配人の指示です。
 するとこのような状況にありながら宿泊を熱望されるお客様が一組受話器のスピーカーを万能、高性能と誤った解釈をされ、大層切羽詰る緊迫した心情を無意識ならが音声に込めたのでした。午前中に追われた応対と対照的に、幾らでも支払う用意は整う、どうにか融通を利かせ部屋を確保してほしい、贅沢は言わない、シングルであろうとも二人寄り添い眠る覚悟だ、と宿泊を切に願います。
 支配人と協議を重ねました、私の一存では決めかねる。
 宿泊客にとって好ましく万全の歓迎を以って漸くホテル業は招く権利を付与される、状況はまだまだ不穏で原因究明は未だ宙をさまよう時節であってホテルに取りましても誤解に傾く吹聴を帰宅後お客様が行ってしまっては今後の宿泊利用への影響あ計り知れません。
 一度拒否に振りましたが書き止めた応対するお客様の氏名を支配人が目にし、すんなり許可を出したのであります。親戚だったようです、失踪したお子様の。
 驚くべきが受け付けた予約客、二名の老夫婦は応対から寸分時を待たずして、ホテル駐車場に滑り込んだのでした。
 あらかじめ地上ゲート前に待機をしていたらしいのです。打ち切りを私たちが伝えます。
 警察から聞かされた内容と漏れ聞こえた非公式な捜査員の心情をお伝えした、「裸、かもしれない」。
 『ひかりいろり』、囲炉裏端にへたり込む二つの背中はましく亀のようで、硬くて丸くそれはそれは小刻みに震えていました。
 [13:42]

鯨行ケバ水濁ル 梟飛ベバ毛落ツル 6-2

「『ひかりいろり』だと特定された理由は?」鋭い眼差し、山城は裏表を持たない人種なのかも。
「天窓は床と平行に屋根に嵌る。これに屋根に上がった者の心理を想像する、答えは自ずと出る。天道虫の習性に近いでしょうか、頂上を目指したい、上がった先は平坦な屋根板、進むでしょうしそこに何かがありそうだと興味が湧く」
 躊躇いはコンマ一秒にも満たないが美弥都の感知には十分だった、山城は言う。「日井田さんには折り入ってご相談と申しますか、できれば今……」
「こちらの要求を飲んでください、アイロニーではなりません、判別する力は持ち合わせていると自負してますので」
 要望はすんなり受け入れられた。後片付けを進める。最後に残ったカップを引き寄せ洗う。少しばかり時間が要するだろう、私がここを発つまでには、美弥都は別人であるかのごとく事件に積極的であった。

「本当に、よかった」
 誰に言うでもなく、言葉が自ら形を揃え口を這い出た。いっそのこと見られてしまえば良かったのだ、ふがいない姿を。力を抜き、カップが割れるみたいに、視線を浴びたなら〝戻れない過去〟と割り切れたのだ。
 二列目の豆たちを漸く片付けたか、片足を階段にかけエプロンをはずした、店内を振り返る。山城は鈴木に一報を入れていた、念のため、私が求めたのである。彼の前で電話に出て、「調査は早くて数十分後、折り返しの回答は電話口かファックスで伝える」、とわざと声を張る鈴木が報告していた。しかしだ、受け取りは数時間後なるだろう。狙いはほかにある。〝彼から得た情報〟、が価値を持つ。
 タバコを吸い忘れていた、彼女はあっさり欲望を履き捨てられる、生態維持に不必要である、きっぱり事実を突きつけ黙らせた。さすがにそれでも小腹程度を満たす欲が生まれる。階段を上り切り照明を落とす、通路を歩いて地下のフロントを目指し無理を頼んだ。係員の家入に念を押されるもホテル入り口で美弥都は車を降りてしまい、月の位置を目印にとぼとぼ歩き始めた。

鯨行ケバ水濁ル 梟飛ベバ毛落ツル 6-1

 二枚目に書かれた文章が脳裏を過ぎった、彼女にとっては造作もなく記憶し収めた画像を一枚脳裏に引っ張り出しておしまい、目の前に現物があるかのようにそれは鮮明であり脳内に留まる限りは取り込んだ記憶そのもの、劣化とは無縁である。
 勘違いにもほどがある、何たる失態。
 天窓をひっきりなしに叩き踏ん付け音を出す日に焼けた薄茶色の髪が、覆い隠す小ぶりな、卵型の顔が、必死に泣きながら呼びかけていた。ほっと胸をなでおろした、少女の救出劇は約三十分後に完遂した。消防へは連絡せず近隣農家に長梯子を借りて戻るのに二十分近くを要し、抱きかかえる救出は五分程度、梯子の昇り降りにかける時間と大差はなかった。命は救われた、失われる状態にすら至ってはいたのかすら、子供が遊び場に屋根を選ぶことなど自ら経た時間をさかのぼりそれらは当然の成り行きであるだろう。
 部屋に持ち込んだアルコール、ボトル一本の丸々摂取により室田幸江は酩酊、係員の応答にドアを開けた時刻は喫茶店を閉める午後の九時前のことであった、という。店じまいの後片付けに取り掛かる美弥都に支配人山城が状況をわざわざ報告しに顔を見せた。気前がよかったのだろうか、私から飲み物の提供を薦めた。ここではすっかり他人事に立ち返っていた。
「自力で回廊の手すりを足がかりに庇へ飛び移って、そこからは腕力に頼り足を掛けた、何でも卒園した保育園が〝自然〟を取り入れた教育方針だそうで、木登りは朝飯前だとか」関心、頷く山城は綻ぶ、血を分けた子供に向ける眼差し。引っ込め、真顔の仮面を取り付ける。「降りられなくなったところを日井田さんに見つけていただいて本当に感謝しております。室田様があの状態でしたから今日中に見つけられて何よりです。……ところで、」美弥都は遮った、問いはひとつしかありはしない。鈴木の報告は黙っていることに決めた、二年前の少女失踪を仄めかすと行動監視をつけられる恐れがある。窮屈は何よりも避けたい。
「二階に出入りできた人物に私も数えられる。空耳かとも思いました、泣き声は窓を開けた刹那聞き取れました」