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公演一回目終了 十分後 ハイグレードエコノミーフロア ~小説は大人の読み物~

アイラは拍手で迎えられた。カワニが後方の補助席で二人に詰め寄られていた、客前に登場した時の様子である。 この中に犯人がいる。一回目の観客たちは席に張り付く。立ち上がった者は私の目からは一人もいなかった、これは確かだ。席を立つ瞬間を見逃していたとしても、空になった座席は目に付くはずだ。二つの目、二つの眉、一つのずつの鼻と口がそれぞれの座席で私を見上げてた。現在のように。
 遅延と待機に対する謝罪は興奮と勢いに水を差す行為に思えて、アイラはするりと演奏に入った。遅れた理由は中盤あたり、お客たちに個別の「私」が体内に生成された頃合いを目処に打ち明けるつもり。今はとにかく、引き入れる、これが求められる。何しろ、ここは上空約三万フィート、約一万メートル上空だ。演奏に関する声やギターの音色など気にかける事項は多岐に及ぶ、いつもは無意識下に任せる作業も今日ばかりは、彼女自身とお客と上空機内を、アイラは探るのだ。
 おぼろげながら薄れ出る記憶に新しい顔が二つほど目に留まった。同列左右の窓側、二人席。目深に二人とも帽子をかぶる、機内であるのに。 
 手拍子。テンポをこれに合わせる。息を合わせよう。曲の印象が異なって、歌うアイラにも感じ取れた。
 数曲を歌い、こちらから速度を速めろ、と仕掛ける。波に乗る。通じ合う機内。視界の奥に、カワニの合図。どうやら紙は見つからなかったらしい、両手と唇をアイラは読み取る。
 脚立がきしむ。動きにあわせて、機材も歌った。
 曲と曲の絶え間にアイラは水分を補給する。お客へは事前にペットボトルを配るよう客室乗務員に手配をしていた。百五十ccの小さいサイズである。お客にも彼女は飲むことを勧めた、感覚の共有。カワニも飲んでいる。黙っていても喉は渇く。
 弦が切れたことを伝えた、また死体の発見については公表を控えた。それは機長の判断に委ねる、とアイラは取り決めた。
 後半の曲に取り掛かろうとした矢先である、弦を押さえる左手仕草を察知したのか刹那に客席の一人が立ち上がった。中央列の前から三番目、にょっきりすらりとした首が肩に生える。踊り子が身につける体躯をその人物は備えていた、目元それから口元の皺が目立つ。肌は白い。
「死体が見つかった。私たち乗客に打ち明けましょうよ」新興宗教の教祖を髣髴とさせる所作と言い回し。ほとんどがアイラ・クズミのせっかくのライブを台無しにする頭のおかしい独断的な観客、という乗客の認識だった。
 アイラは数秒間黙った。大げさなざわめきやくしゃみや咳払いのわずかな時間に、隠し通す場合のこの人物と観客を説き伏せる労力、そして停滞を余儀なくされた演奏の流れを一から引き起こす労働力と完走まで残り時間をめまぐるしく思考を働かせ、他方では真実を暴露した場合に予測される乗客たちのパニックと薄らぐ演奏への興味、そして安堵とライブをかみ締めるビジネスクラスのお客たちに伝えた場合の影響と対処を試算してみた。
 瞬間的な判断だったに違いない。最低限、ビジネスクラスのお客の公演は守れらた、この事実が大きく決断に関わった、とはいえるが正当とはまるでかけ離れた決意だ。アイラは真実の公表に踏み切った。ただし、と注意事項を沿えて。
「殺された可能性は低い」徐々にアイラの音量が高まる、機内はぴたり音が止む。「私たちが控え室の代わりに使うフロアの、ある場所で死体は見つかる。おかしい表現ですが、その事実との直面はついさきほどです。マネージャーが私のプライベートな出来事を皆さんに提供する間、実は死体の応対について協議を重ねていたのです。行動規約、機内ではその法規に従うことを要求された」
「なぜ今まで黙っていたの?」女性客の態度は堂々と客席、いやフロア一体に広がる。乗客たちは私と女性客への視線移動に忙しい。何事かを書き留める仕草、引き続く驚愕、隣人と囁きあう者は数人だった、こういったときに状況はより鮮明に飛び込んでくるのだ。女性が六割、男性が四割、といった具合に数字に置き換えることも容易い。
「黙っていた……、状況を知ってはじめて口をつく言葉。知らぬが仏、騒ぎ立てることもこうして演奏に水を差すこともなく、皆さんは稀に開かれた、おそらくは今回限りでしょうが、演奏を目にする機会に預かれた。私がわざわざ楽しみを壊すのですか?提供してる身分であるのに、それこそおかしな態度でしょう」
「あなたが殺した、だから黙っていた、いえ、沈黙を貫くことが最良だったのよ」