コンテナガレージ

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トラディショナル4-1

 快晴の翌日。朝食を食べるか、という質問を始めてされ、それを快く断り、山に入る祖父と犬を追いかけるよう、私は山道を登った。ここは彼の山らしく、しかし、山道は一般向けに解放している。入山の許可が必要、緩やかなカーブを曲がった先の小屋で手続きを取った一行に出くわす。私を対象に聞き飽きた言葉がかかる。それとなく私は対処、慣れればどうってことはない。取り合ったらそれこそ時間のロス。彼らを追い抜かして、私たちは先を進んだ。

 山中とはいっても、切り崩した平面の土地に畑らしき場所の名残が数箇所確認できた。私の視線に祖父の説明、米と野菜を作っていたのが四十年ほど前のこと。入山口周辺に人が移り住む前の風景だそうだ。 

 数時間を登ってひらけた場所に行き着く。展望台のようなつくりの柵が申し訳程度に海を見渡す飛び出した平台に見えた。危険だから祖父が作ったらしい、その前には木製のベンチが備え付けてあった。家にあったのよりもこちらのほうが新しい。

 祖父は綺麗や素敵といった言葉を強要しなく、見たままを私に言わせる、いいや、口をつくまで彼は黙って待つ姿勢を崩さなかった。この人はこの景色を何百回と見続けてる、たぶん母親も見ていたはず。景色としてしか、私は意見を持たない。感動とは無縁の性質なのだ。だからといって悲観はしない。むしろ、そういった共感にのみ作用する機能の欠落に喜んでいるぐらいだ。

 ベンチに並んで座り、犬は私の横に地べたに這う。昼食を食べた。祖父が水筒のお茶を汲む。外で食べるからおいしい、そういった文句はいつしか定常化されたようにこの間の遠足でも誰かが発言していた。単なる味を感知する機能が通常の能力を発揮しただけのこと、なんら驚く事態でもない。空気に味はない。もちろん、都会と比べると汚染は軽減された空気であるが、祖父のようにだったら空気の綺麗な土地に移り住めばいいのに、どうして無理に都会を好むのだろう。利便性か。それとも仕事の関係、あるいは作り上げた家族、それぞれの社会生活か。その日は山を下りて、また私はベンチで休み、犬と夕方にここまでの半分距離を歩いて、引き返し。その日を終えた。