「いいえ、怖いから話を合わせていただけ」女性はぐるりと目を回した。電車の駆動に、笛の音、車両がホームを去る。風が吹き抜けた。
「ポケットの物を出してくれないかな?」素直にカードを差し出した。未練はない。「ありがとう」
彼女が立ち去るのを見送り、鞄のずれを跳ねて直してから階段を下りた。地下鉄に乗り換え、二駅目で路線を変える。そこから二つ揺られた駅が自宅からの最寄り駅である。バスが集結するターミナル駅だ。駅に着くと電話をする決まりなので僕は公衆電話に近づき、背伸び、手をのばして受話器を掴み、水色の小銭入れから取り出した十円を投入する。
「もしもし、駅に着いたよ、これから帰るから」
「遅かったわね、寄り道でもしてたの?」身を案じる質問ではなくて、制限のはみ出しを懸念しているのだ、僕は真実だけを告げる。
「図書館で本を借りていたら、電車に乗り遅れたの。それに友達のお姉ちゃんとばったり会って、お話したから」
「わかったわ。家まではまっすぐ帰ってくるのよ。お料理教室で手が放せないんだから。気をつけてね」
「うん」受話器を戻して、財布を上着、サイドのポケットに入れようとしたら、何かが進入を拒んでいた。銀行のキャッシュカードである。公衆電話がその時に鳴った。僕は躊躇うことなく、爪先立ちで重たい受話器を受けた。はい、もしもし。
「そちらのカードをご使用ください、金額が足りないようでしたら、ご希望の額を入金させますので」
「監視していますね、こちらを」
「ご自宅まで見張るようにとの命令ですので」
「あの女性に渡したカードは初めから盗まれる前提で、本物がこちらというわけですか、マジックみたい」
「我々だけでなく、これからは接触が頻繁に交わされるでしょう」
「自信がおありですね」
「自由は制限とセットです。豪邸に住んだとしても、普段使わない部屋の掃除は面倒で、しかも掃除のために自宅へ人を入れることはもうすでに自由とは言えません」駅前の信号に佇む人物は二回の青信号を見逃しているのを、右目が捉える。監視されているらしい。