コンテナガレージ

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K国際空港二階 出発ロビー 60番ゲート前

「こんにちは。アイラさん、だよね?」確かめるような口ぶり、視界の左端に女性が顔を屈めて立つ。長いコートを羽織る、毛量の多い痛んだ髪、何者であるかはアイラが知るはずもない、彼女は人の名前を覚えない。
「はい」そっけなく答えた、いつもの口ぶり。
「隣、空いてる?」気取った音質、かしげた首、浅黒い肌。なぜ、髪の色が茶色なのか、その質問に応えてくれれば、いくらでも私の隣を空ける。
 席に座る。その先はつまり、私に話しかける機会を間接的に、その許諾を得ようとする事後報告。正面切っていえないものだろうか……。
「席は空いています」
「ははっ、話に聞いてたまんま。君さぁ、歳は、いくつぅ?」許可を下した覚えはないのに、女性は隣に座った。コートが開ける、気温の日較差を懸念しての対応、あるいは国内の移動であるならば北へ飛ぶのか。しかし、ここは国際線の出発ロビーだ。とすれば日本との気温差が少ない地域へ移るのだろう。
 相手を見据える。
 彼女、突然現れた人物をファンや一般市民から除外した。「聞いていた」、というフレーズが引っかかった。
「失礼ですが?」アイラは名前を尋ねた。
 含みかけたペットボトルの飲み口と女性の唇が一定の距離で止まる、白目の目立つ大きい瞳が私を捉える。「ぼくの名前、ほっんとに知らないの?」フランクな口調は大げさに映った。
「はい」
「そっかあ、時代ね。年末の年越し番組も何回か出場しているのになぁ」波紋を打つ湾曲したガラスを見て彼女は悲しげに言った。しかし、それほど気分の落ち込みは見られない。耐性は作られている。
「私はテレビを見ないので」アイラはそこで横にねじる首を正面に戻した。
「ぼくね」かすかに含み笑いが漏れる。「ツアーの参加者なの」
「あなたは歌い手ですか?」アイラは訊いた、タバコは四分の一が消化する。
 天板の焦げ痕対策に開けて覗く灰皿の内部、ステンレスには僅かに周囲と隙間が見られ、縁にアタッチメントがつく。くり貫いた局面に沿って円筒のくぼみがせりあがる仕組み、レバーを押すと引きあがった。これは手動か、なんとも不合理なシステム。質問の答えをきく。
「そうね、本業は歌手だって公言してもいいかも。ただ、定期的に新曲を出してはいないのよ。私は歌う専門で作曲はできないの、才能ある君と違って、ね」やっかみは通り越した、諦めが幅を利かせる、手を打てばいい、今からでも遅くはないだろうに、これもやはり生活という不自由な足かせを自らはめたのだろうな、とアイラ。女性は大げさに声に近い息を吐いて言う、実に弁解がましい、手振りが煙の流れを変える。「勘違いしないでくれよ。目的は本場のロックスターがお目当てなんだから、だけどこれも内緒ね、だって参考にしてるって思われるでしょう?搭乗のチケットは偶然手に入れたんだ、スケジュールの都合上君の便が最適だったのよ」
 つまり、観賞する姿をアイラたちの関係者が目ざとく発見、歌手本人である事実をアイラに知れ、業界のベテランが後輩の、まだデビュー三年目でありながら昨年のトップセールスを誇る新人の動向とその演奏の研究を画策しているなどとは決して思われたくはない、との心情を彼女は打ち明けた。
 理解に苦しむ。が、流行という周囲とのバランスに生きる者にとっては死活問題に発展しかねないのだ、……あきれるほど窮屈で無機質な世界にいつまでも縋る、か。アイラは半眼にタバコを愉しんだ。
 二言三言言葉を吐いていたが、アイラは女性歌手が席を離れた直後に出会いの記憶を取り去った。覚えておく必要性にはひどく欠ける。取り出せない位置にしまおう。完全に捨ててしまえるが、念のためにかすかな可能性のために。危険を含んだ因子なのだろう、完全な抹消に待ったがかかった。白紙に戻せば、ゼロからイチの強烈な力に晒されるのだ。
 覆い尽くすサングラスをかけた女性が二つ席をおいて腰をかける。無骨で直線的な身のこなし、筋肉に頼った偏る動き。後年に待ち受ける悲惨な状況を当人は想像にすら上げていない、そればかりか数十年後の未来すら行き当たりばったり、思いがけず想像に上がる日常はしゃにむに仕事に休みに費やされる。
「私、誰だか知ってる?」
 皆、自分の名前を忘れてしまったらしい。
 横柄な態度に受け取られる、という心配はどうやら二の次に追いやる。
 ストッパーの吸音材に頼りきった乱暴な引き戸の扱い、
 登場シーンはいやが上にも彼女以外の喫煙者に知らしめた。
 問いかけられた者は認識を遅らせる。あなたには関心を寄せてはいない、興味はないのです、とアイラは意思を示した。
「おい、よう!知らないのかって訊いてんだけど」サングラスのブリッジをずらす、瞳をこちらに見せた。アイラは横目をぎろり、音圧の発信源に向ける。
「初めまして、こんばんは」
 体の二倍ほどの矜持が拡大と収斂。冷風が通り過ぎた。私は誰、と問いかける女性は指差して放つ。「……あんたさあ、アイラよね?アイラ・クズミでしょう?」喫煙室の見知らぬ同席者が毛羽立った。一度に顔を向けると、人の動作でも知覚可能な音量に引きあがった、実に興味深い。
「だからどうだというのですか」タバコを捨てようか迷った、まだ続きそうな話の予兆をひしひし感じる。言葉に詰まったやり取りの間が席を立つきっかけを作るタバコの吸いきりに適当だろう。
 いつも最善ばかりを探す。それがことごとく裏切られる。無自覚を胸に掲げる者の楽しげな生活が視界に飛び込んでは消える。タバコなどをはじめ体に害を及ぼす成分を取り入れている意識はある。自浄作用を超えた毒による死が食料の摂取に付きまとう制約下に、生体維持が摂取する物質をやり込めたことで体の機能を損なう危険性を公言しつつ販売を許可する実態は、政治的な背景が見え隠れ、いいや姿のほとんどは視認されている。これが日常成り下がった。つまり、販売は買い手が存在するから続くのであり、需要が見込める、販売を許可する法規制を意図的に作り上げることは大勢の利益を叶えられる。音を奏でた背後のビジネスマンたちも自身の生活と地位を守もらなくてはならない、生活は第一の優先。介在の手助けは紙幣か、最近は特に姿を見かけない。アイラが持ち歩くお金といえば、スタジオまでの往復の電車賃と昼食代の五百円、ブース内のコーヒーで水分補給は済ませる。
 何事かを女性はわめきたてる、無法者がいつも意識を引き戻す。
 女性はアイラに問いかけの返答を願う。しかし、答えない権利はアイラに帰属する。問いかけがそちらに付与、と同時にこちらにも権利が与えられる。礼儀、普段は忌み嫌うばずがこのときばかりは持ち出す人も多いように思う、目を見て話せという迷信も発話者が聞き手と対等な立場にまずは一段降りて話かけるべきだ、私心が含まれているのであれば、その事実は明らかにしてからが平等にやっと耳を傾けられる。過去私に降りかかった災難の大半は返答の有無、主に無視に関する態度に向けられた沸点の上昇であった。思い通りにいかないことが発話者にとっては苛立ちを駆り立てる、屋外であっても、まあ自室の室内でも褒められた態度ではないにしろ、要求を突き通す押し通す気概は厄介だった。ゼロか百かの確率論は捨てるべきなのだ、こうした身軽な私でさえ、執拗につきまわす視線に晒され、時には現在のように演奏前の貴重は時間を奪われる。