「一発オッケーでいいの?ブースに入って十分も経ってないけど」マイクを通じ音声が届く。厭にくぐもった、とも言いがたいが、ガラスを隔てて顔が見えているので、口元から発せられるはずの音が天井のスピーカーを伝う、ピカソのゲニカルようにちぐはぐ、それでいて強調された歪が目立つ。
息をつく、ヘッドフォンをはずして、背の高い丸テーブルのボタンを押す。「まず、こだわる根本を提示してください、不用意な収録は創作を闇雲に引き延ばす、悪しき習慣です」
エンジニアの男性は肩をすくめた。いつものことだ、また始まった。怒りは疾うに通り越しただろう、私との付き合いには目くじらを立てることが何よりの失態である。アイラ・クズミはブースを出た。空港から直接このレコーディングスタジオにやって来た彼女たちであるが、マネージャーのカワニ、スタイリストのアキ、女性事務所員楠井の姿は見えない、みなそれぞれ仕事を抱えるのだ。
ローテーブルの冷めたコーヒーを啜る。適度にぬるく、彼女には最適な温度に下がる。猫舌、熱い食べ物を口に運ぶ耐性を、生きてきた中で必要に感じてしまう世の中はおかしい、とアイラは思う。毛羽立つ鮮やかなグリーンのニットの背中、肩甲骨が腕を引き伸ばして遠くのスイッチやつまみの調節をする度にうねうねとそれらが生地の下で這う。ほっそりとした体形に似合わず、彼は大食漢だ、また無精ひげを生やす様はどことなく研究者を髣髴とさせる。実家の近所に大学があったので頻繁に、いや毎日後ろ手に難しい表情で歩く白衣の人物に出くわした、アイラは幼少期に特例でこれもほぼ毎日見逃してもらった大学の図書室の閲覧をついでに思い出した。そして、忘れる。思い出さないように。
構想、ある程度の外枠を作り上げて着手に取り掛かる。作業の合間も終始、執拗にという言い方が適切かもしれない、描いたイメージをはみ出す箇所と枠内に収まる箇所に目を光らせる。おおよその完成後では無駄が多い、と体感してからというもの、一様にこの方法を選ぶ。彼女は一日にノルマを課す。常に考え、創作に明け暮れる。夜型のだらだらと長引く作業とは対照的な作業を彼女は日々こなすのだ。夜の八時には店じまい、仕事を切り上げている。これはイレギュラーに舞い込む仕事たちが私の製作リズムを見越しているのかもしれない、アイラはキクラの反応を待った。
黒はおびえる恐怖を通り越し、
二つ三つの吸収は気味が悪く、グロテスクな醜悪、その色を瞳に映す。
コーヒーの液面は実に穏やかに微笑を浮かべている、
彼女はコーヒーを含む。
「締め切り予定は、たしか来月のはずだったよね、この曲?」背中でキクラが訊いた。
「そうです。締め切りを破れと?」
「まさか、アイラぐらいだって言いたいのさ」
「芸術で括る仕事に関しては期限の引き延ばしを比較的大目に見る悪しき習慣が、未だ常識の名を借りて常時感染をしてる。彼らは片棒を担ぎ、時々クリエーターを睨みつけ、急きたてる。足元が見えてない、のは彼らの方です」
「それをさあ」キクラは椅子ごと振り返った。「クライアントに直接言えるから、うん、すごいよね」
「関わりあう人数、絡む組織が多ければ、それだけ滞留する可能性が高まり、機会が増える。もっとシンプルに仕事を構築するべきです、ただ立っている人が多すぎます」
「もうちょっと控えめな方が、この業界で生きるには利口だと思うよ」心配、身を案じてる、それとも教示だろうか。「締め切りを守らない人が大半だっていうのは、もう業界の慣わしみたいなものだからね、主食のお米を明日からパンには変えられないだろう?」
「朝食に消費されるパンは米の消費量を上回りました、数年前のデータです」きっぱりアイラは言う。「徐々にパン食が家庭に浸透していった、パンに合うチーズ、バター、ハム、ジャムに、ともに食べるヨーグルトなど関連商品が増加、食卓の景色が少しずつ侵食された。ご飯を炊く、という手間を省け、購入すれば即食べられる手軽さに忙しい共働き世代との押し上げがここ数年の食卓を一変させたのでしょうね。私は朝食を食べませんけど」
「……どこで仕入れてくるの、その情報?」苦笑いのキクラが尋ねる。笑いたくなければ、引き攣ってるべきである。アイラを気遣った行動と思うのならば、逆効果でしかない。
「満員電車」
「そうなんだ、ふーん、電車ねぇ」背中が向けられた。
失敗だとは思わない、誰かと意識を通わせる、まして仕事相手と距離を縮めてその先に妥協がちらつくのであれば、その因子の発生は即刻絶つべきなのだ。彼女は首を回した、機内で寝違えた、右側の筋が突っ張る。機内での睡眠は数時間に収めた、今日は日本時間に合わせて眠る。仕事を入れたのも睡眠の質を高めるためだといってもいい。アイラ・クズミ、というシンガーソングライターは年中、曲作りと演奏に明け暮れる。仕事を生活のそのものに日々を過ごす、人を嫌い、接触を拒む。偏屈、話好きとは到底いえない性格ではあるが、彼女の人気は今や日本を代表する歌手にその名を知らない者は数えるほど、という活躍を見せる。ただそうはいっても、彼女の素顔はほとんど世間に知られておらず、彼女もまたメディアへの露出を極力控えるのだ。
今年は四曲、製作の契約を結ぶ。そのほかクライアントの出資によるイレギュラーな仕事が二曲追加された。CMのタイアップが一曲、もうひとつが現在作成に取り掛かる曲である。
一人、または二人で曲の骨組みを作る。歌手は表舞台の華やかさと日常に寄り添う職人気質の両面を持ち得なくてはならない。お客は表ばかり見ているし、作り手は裏ばかり見せようとする。どちらも不正解だろう。お客は作品からにじみ出る背景を読み取る力が失われているし、方や製作者は苦労の痕跡をあざとく見せようと密着取材ばかり受ける。今月に入って数十件、密着カメラを仕事場に入れた撮影依頼をマネジャーのカワニに断ってもらった。私に許可を得る前に、判断をして欲しいものだが、心変わりを彼も願っているのだろう。他人の作り方は憧れを抱く、触発もされるが、所詮は他者から得られた動機、いつか尽き果てる。まずは手を動かしてはどうだろうか。夢を与えるているつもりは、アイラにはまったくその実感を持ってていないのだから、まともな意見であると、彼女は思うのだ。
曲を流してもらう。どのような曲調が似合うのか、クライアントの意向を取り入れる。製作過程の話。彼女は目を閉じてもいない、じっとコーヒーの油分を見つめる。豆に含まれる油。甘いお菓子のような飲み物の前では隠れる姿。車の宣伝に使用するのだそうだ、車名はウェイブ。テレビで流すらしい、詳細はカワニが把握する。私は曲を作る担当である。コンパクトな新型車、過去に一世を風靡した車種の後継機、現代の生活事情に即す、満を持した登場なのだ。アメリカ出立前に担当者とここで顔を合わせた、記憶に新しい。
爽快、若者、手軽さ、この三点を標榜。
だいぶ物の真の価値に近づいてきた、やっと原点を見定める覚悟が整ったか。
テンポが速い、
じらす、
強弱をつける。
大げさに、わざとらしく。
注文は曲を聴き終わってまとめて伝える。忘れはしない、その程度は。
昨日が視界を横切る、前へ出たがってる。整理はあとに回す予定が、どうにもわがままな記憶。
歌がのる。
弱弱しい、
新しい一面をキクラは感じているだろう、背中が小刻みに不協和を体現する。
事件と呼んでいいのかも、判断に困ってしまう。その場をありありと見せ付けられたときに感じた、なぜ私が選ばれたのか、と。他の乗客との違いはどこにあったのか、と。私が機体の支配者、それは客室乗務員の浅はかな考えだ。
空室のブースに篭る、気がついた箇所を上げて、私は歌った。キクラ越しに彼女を見た。
誤作動は頻繁に起きているのだ、いるはずのない人をこうしてアイラは呼び出す。あたかもそこに存在し、歌声の主としてマイクに振動を送る人。
咆哮。若い叫び。私が作曲者であることは伏せようか、作り手によって曲の印象に違いが生まれる、まったくよどんだ視界ばかり肥大化してるとは……。だが、クライアントの依頼が曲製作の根本を担う。したがって、私が作詞作曲に携わり、歌を歌う人物、ここまでが商品の価値なのだろう。
決まった、彼女は方向性をそっと固める。反対者にはそれなりの忠告を添える。一方的な見方ばかりがすべてではないのだ、愚かで聴くに読むに作るに手に取るに値しない、価値の低い程度の製品にも必ずよいところ、価値は見出せる。子供にかわいい、とばかり投げかける教育とは一緒くたにされては困る。線引きは気づいた者たちだけの効用に。
そう、すべてを言ってしまう必要は私に課せられてはいないのだから。
音が前面に出る、ステージを大きく見せる、彼女の分身が四人本人を挟んで歌う。細かく声質や節回しに裏声、リズムの癖、抑揚をそれぞれ変えた。
ひとまとまりに掌握し、開放、受け取ってもらい、もう一度回収し、再度解き放つ。
授受。
アイラの色であり、お客の色がステージを染める。きらびやかに軽やか、くすみ、淀み、うらぶれつつも、光をほのかに角度を変え当てる。あたる、植物みたいに光に吸い寄せられ動き、伸び、成長する。一時を高めるため、曲にはギミックを封じる。気づいてくれて幸い、気づかなくて結構、見返してひっくり繰り返し、途中参戦でも軌跡を追えるように後ろ砂を蒔く。
新しいことをしよう。そう願う。だから、私がここにいる、いられる、いてくれようとしなくては昨日が不貞腐れるから。
キクラの問いかけが無声だった。集中するといつもこうなる、読唇術は学んでいた、何度も体験するので必要に迫られた彼女である。
「終わったよ」
音が回復。
「一箇所、修正を」
「恐ろしいこと言わないでくれよ、全部変えるとかは勘弁だからね、……締め切りはたいぶ先だけど」
「言葉にならない音声を差し入れます」カワニへ連絡を取る、帰宅時を除いて取り出したのはいつだろう、端末を手にするときはいつもこうして問いかける。
「もしもし」
「、はい」高い声とノイズ、若干のずれ。アイラが会話の主導権を握った。
「ウェイブを用意してください」