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K国際空港二階 出発ロビー 60番ゲート前

あの稚拙な言葉遣いはどこで覚えたのか、搾り出した末の発言に聞こえた。気負いを削ぐと残り現れる像である。開け放たれたドアの戻りを手で支えた、私の居場所、閉ざされてなるものか。剥奪権を譲り渡す、そう受け取れたら考えを改めるか。いや、私は普遍的な事象と手を取り合う、変わってるのはあなた方。置き去りにされた一握の欠片をより集め、現実に引きずり出して、見せる。感動的でしょう、かつて置き忘れた一部であるのだから、居所の知れない懐かしさは的確な感覚を揺るがす。
 手を上げて、即座に引っ込めるカワニを目に留めた、サングラスの歌手は視界を外れた、搭乗ゲート、ベンチに姿はない。
 ギターとリュックを背負った。ひたひた演奏が近づく。
 便名のアナウンスは架空の、存在しない私たちだけに向けた、いわば暗号。ツアー客の前に私たちは搭乗する筈であった。お客がちらほら姿を見せ始める、出発に遅れてなるものか、通常よりも余裕を見て空港を目指す行動は必然に思う。私たちがそれを見抜けなかっただけのこと。
 そろそろ乗客、いや観客が集まり始めたとカワニの落ち着きのない態度がわかりやすく空気を伝う。帽子を脱いだ私の姿をしかし彼は、元に戻すことの指示は控えた。ここは客前、会場で言うならば入場前の行列である。揉め事に取られるカワニの指摘は演奏へマイナスの影響を、お客がそうは思わずとも心理的な不安を煽ってしまいかねない、考えていないようでカワニはマネージャーとしては実に有能なのだ。
 さあ、とアイラは気を引き締めた。
 初舞台だ、失敗は覚悟の上。お客も理解をしているだろう、手探りな不具合をわざと見せなくとも揺れる室内が身勝手にアクシデントの手助けをいの一番に買って出るのだ、流れに任せる。
 ギターを手に持ちかえる。リュックを背負い直した。アキが最も荷物が多い、続いて事務所員の楠井、カワニは三番目で、私が最後。これは手荷物に限った観測で、預けたスーツケースをいれると二番と三番が入れ替わる。要するに身の回りの支度を整える所持品の多さは女性に軍配が上がる、ということだ。ちなみに、アイラは通例を外れ、またアキは私の衣装が荷物のほとんど占めるので、事実上二名の所属事務所プリテンスの社員の比較に行き着く。実に局所的なデータであるが、彼らは現代の当該年齢層の実態を如実に表してくれている、観測結果の正当性は脇においても、主だった流れを把握する指標としては手軽な試験体に属する。
 実験だ、お客の前でもそのようにアイラは伝えている。いつもの断りである。ライブの告知情報に、入場の注意事項に、日程の真下に大きく見落としのないようはっきり書きつけた。
 三人を先に行かせ、チケットをJFA航空の地上係に手渡す。女性にこのような接客の仕事をやらせるべきではない、息巻いていた女性社長が映像に浮かんだ、どこかで取り入れた情報が時々ノイズみたいに現実の意識に感応してしまう。現実の映像の重要度は低いので、その分視界の三分の一ほど脳内の画面にスクリーンを投影する彼女だ、蚊に指された思えば痕が残らず消える。
 上下左右を囲う橋を歩く、
 一度カワニが振り返った、彼が先頭である。つられて衣装バッグを肩に担いだアキも振り返る。楠井は右手の窓、滑走路と飛行機の尾翼を眺めてフライトに胸を躍らせる横顔をこぼす。
 性別を越えた共通の価値を受付係に求めると、女性側からは若い男性の受け答えを願う。問題は生じるだろう、男性の前に気後れする女性の気質や中年以降の年代が好意を抱いてしまう自責の念。与えられた仕事を超える影響を訪問客に与えてしまっている。機械に任せてはどうだろう。人件費とメンテナンス費用ならば、長期的な営利活動の場合、後者が安く上がる。刻々と搭乗間際を襲う搭乗に関する変化に機械がついてゆけるかどうか。
 アイラは考察と別れた、不快な映像も切る。
 緩やかにだか、頭は回り始めた。いつもは背負うギターが右手にぶら下がる。がらがらとキャリーの車輪。
 上空の音が聞きたくなった。
 音に合わせよう、それがすべてだ。セットリストの変更は大いにありうる。もちろん、お客は白紙、事前通知なしで搭乗し、席に着く。ベルト解除のサインが開演、ということだけを伝えていた。
 共通性、が肝だ。
 フライトの課題、異状な環境を利用する。
 アトラクションに並ぶ乗客が相似、ワンダーランドに足を踏み入れるとそこは異空間に早代わりするのだ、個々人の最上の空間にさせよ、内部がはやし立てる。 
「私を、殺せ」アイラは抑揚ないアクセントで呟く。ロボットみたい、無機質でしかし言葉の意味は放った傍から放射状に全身を染めた。
 窓が終わる。角を曲がり、明るさが変わる。女性客室乗務員が二人、ドアの継ぎ目で出迎えた。仕事、割り切った徹底振り、それは短期間の在籍の証でもある。左手に案内をされた、先導しなくても、と思う。右手がエコノミー、客席は空っぽであった。半身の客室乗務員が待機の姿勢を解除した、アイラたちは彼女に続く。
 十九席。
 最後尾の窓側の二席がアイラの目に付く。ハイグレード・エコノミー、このフロアの滞在はアイラたち四名に限られ、ツアー客の出入りを禁じる。表示板を立てかけて移動を禁じるのか、それともお客の良心に任せて口頭で告げ通行が不可能であることを訴えるのか、客室乗務員等の行き来を考えると後者が望ましいか……、アイラは控え室の安らぎが侵害しかねない事態を思い浮かべた。
 思い思いの席に三人が座る。アキは最後尾の列の中央三席を確保していた、バッグは既に背の高い乗務員が荷物棚に荷物を押し込む。カワニは最前列の中央に座る、彼はいち早く離陸を望む一人だろう、自宅の観葉植物が枯れ果てる寸前、その異変に気づき、現在予断を許さない症状らしいのだ、私が車に乗り込むや否や唐突に運転席で体をねじり伝えたのだった。なんでも、彼の同居人が毎日水を与えていたことで根腐れを起こしている。助かる見込みは一割程度、渡航準備に忙しい中貸しスタジオに私を迎える前に管理人に許可をもらい、その植物を置かせてもらっている、と必死に訴えた、湿度と温度が保たれるスタジオ内は乾燥に気をつければカワニの植物にはぴったりの生育環境であるらしい。
 それら植物たちは一般に私たちに癒しを与える。だが、四六時中は一緒にいられない、当然である。それでも時間が空いたら世話をし、応えるかのように子葉をつけ、つぼみ、開花、散り、種を実る様はなんとも世話人と無関係に思えてならない。
 数歩、最後尾から進む。アイラは立ち止まった。
 客室乗務員が仕事を全うする前に、持ち上げたギターケースを頭上の荷物棚にしまう。
 腰を下ろして、外を眺める。準備は整った、という合図だ、シートベルトは締めた。
 楠井の頭が飛び出ては、引っ込む。飛行機が苦手、と彼女は助手席でカワニに告げていた。前回の搭乗は先月の九州ライブツアーだったはず。物販の応援に彼女は借り出されていた。仕事と割り切った態度だったのか、事件に巻き込まれ当日のフライトに乗り遅れて急遽宿泊に変更した時安堵に胸をなでおろす様子は見られなかった。離陸間際の変貌への対処も考えておくべきだろう、アイラは言いくるめる文言を複数例考え出す。
 窮屈なベルト、自らの意思による発進を連想してしまう。自動車の記憶とリンクを果たすのだろう。
 時間は過ぎ、
 離陸までの待機は自分以外の誰かのために待っている、
 乗客が苛立つ意味が読み取れた。通路のカーテンが閉まる。
 "思い通り"、利便性の果てに露呈する愚かな、確実にその身に宿る人の本質。私が玲瓏であると公言したつもりがあってたまるか。知覚し自覚、だから発現に身をゆだねては意識をそらすのだ。
 高まる期待、
 通常との比較は難しいにしろ、異質であることは席に着くと後戻りができない状況、異空間に誘ってくれる浮遊を観客は思い描くのか、彼らの心理に寄り添えたアイラは機首を変える見慣れない地上の平たい作業車を密かに出迎えた

K国際空港二階 出発ロビー 60番ゲート前 

miyako、とその女性は名乗った。頭にサングラスを引き上げて待機。自分にはまったく見えていないのに、どうにもサングラスの誤解された使い方に海外の視点どのように捉えるのだろう、アイラは海外のすし屋を見ているようでならない。
 miyakoはとても一方的であるが、早口には程遠い。文章を短く区切る断定的な口調。ただ、私の脳内のように大まかなに見出しをつけ、取り出しやすく事象を並べた意図とは異なる。おそらくは言い切ったわずかの隙に次の言葉を捜す。そう、使い古した昨日耳にした誰かのいつかの言葉を音声に変える。
 根元に到達するタバコを灰皿に押し付けて尋ねた。「問いかけた趣旨の解説を。意味を図りかねます」無駄な言葉が多い、という意味合いを込めたつもりである。
「聞いてなかったのか、お前?はあぁ、さすがは売れっ子。……去年のフェスだよ、お前とおーんなじステージに出てたんだぞ、このやろう」
 知らない、今度は無言で呟いた。この人の要望が掴めない。アイラは目を細める。
「なによ、そんな怒んなくたって別に、私だって覚えてて欲しくはないのよ。共演者だしぃ、一緒にステージに立ったわけだから、名前と顔ぐらいは知っているんじゃないかって、普通礼儀で挨拶ぐらいするでしょうに」
 必要だろうか、届ける相手は観客のはずだ。
 アナウンスが流れた。
 搭乗ゲートが開いたようだ。アイラは立ち上がリ、しかたなく一言だけ会話を交わすことを許諾した、もちろん不本意である。
「たまたま居合わせた同業者の私に声をかけ、ぶしつけな応対に怒りをあなたは覚える。それで本来の目的、私の動きを私の死角に位置取り、この喫煙室に入るタイミングを窺って、偶然を見方に姿をみせた。さあ、用件を聞きましょう、しかし時間がありません。飛行機に乗らなくては、どうぞ手短に」
「ばっかじゃないの馬鹿じゃないのバーカじゃないの、勘違いしないで!」miyakoは言い切る、癇に障ったらしい。取り繕い、彼女はタバコに火をつけた。すぐに席を離れるアイラを追いかけるつもりはないらしい、よかった。「後輩のあんたが声をかけんのが筋ってもんでしょうにぃ。業界の常識破ってる、自覚があるの?そりゃあ、売れてる人だから、人気者は何をしたって許されるだろうけど、いつまでも続くって思い上がりは痛い目見るぞ、お前。私だってこの時間に好き好んでサングラスかけてると思うの、これでも顔を指すのよ、誰かさんみたいにな」つまり、自分はお前に取って代わる存在であり、いつでもその座を奪い取ってみせる心構えだ、という豪語。まったくの見当違い。だが、親切にその事実をあえて伝えることもないだろう、素直にこちらの非を認めたほうが、カワニが精神的な圧迫も短時間に低濃度に収まるし、それに私はステージを控える身なのだ。地上で身を削るわけには、不可抗力であろうとも避けるべきが正しい選択、といえる。実に不愉快、ではある。
 物量で圧倒するか、アイラは口を開いた。
「アイラ・クズミです。以前お会いしましたね、お久しぶりです。渡航ですか?お忙しいのでしょうからお仕事なのでしょうね。どちらへ行かれる予定で、出発の時刻は?私と行き先が同じとは思えませんね、次の便は関係者以外は乗れませんから。特定の人たち専用の便、というだけのことでして、個人ジェットではありません。もっとも個人所有機の場合は、搭乗ゲートから機内に乗り込むことは少ないでしょうね、滑走路へ車か徒歩で近づきタラップを上る。大型機の所有は効率面でマイナス、おまけに不経済ときてる。維持と管理の整備費用の莫大な出費がネックです。まあ、なんにせよ、たわいもない会話ですから、このあたりで私は。乗り遅れるつもりは行動に組み込まれていませんので、失礼をさせていただきます」
 タバコをしっかり掴む。マッチと別れ、コーヒーを飲み干す。機内へ持ち込めない所持品を切り離した。そうだ、いつも私は搭乗ゲートを通る気構えを持っているのだろう、荷物の軽さに合点がいった。
 アイラはmiyakoの背後を通る。大き目の白シャツ、カリフォルニアと書かれたバックプリントの文字、その土地の生産とは無関係だろうに。やはり考えてはいないのだ。流されている、「他者」を意識する割に特定の思想を外れる世界を持てていないのだ。
 ドアの横、二つの自販機の隙間。挟まれるゴミ箱へ投下したわずか数秒に、miyakoが立ちはだかった。小柄、スタイリストのアキと同じぐらいの背丈である、百五十台前半。切り詰めたような前髪、いつかは乱れるのにとても盲目、移り気、髪を伸ばしたいのだとたぶん周囲に公言するだろう。誰も諸事情を尋ねた覚えはないのにだ。
「見てろよ」三白眼。白目が目立つ。意識的に作られた攻撃的な容姿。甘い香水がアンバランスに香る。「売り上げの記録、抜いてみせるから。人気だってね、日本どころか、世界を私はね、目指してる。負けないから、いまのうちだから、覚えておいて」
 つい口が滑った。「あなたが覚えておけばいい、私は忘れる」
 忙しい顔だ、眉間に皺がよったかと思えば、口元に皺がよる。口角が上がり、目元が緩む。「いいの、いいのよ、私ってねとっても寛大な性格なんだから。みんな誤解してんよのね、本質はちゃーんと隠してる。……能天気で無関心いられる今を愉しんでおきなさい」後半は低音に傾いたトーン、ぐっと距離が詰まり、miyakoは爪先立ち。「ハイティーンの歌姫は私の称号。返してもらう、そのうちに取りに行くわ。首を洗って待ってろよ、おばさん」
 唾を吐かれたような気がした。けれど、天井に向けて吐いたので、影響を受けるのはmiyakoの方だ。
 おばさん、を揶揄だとはじめて認識した、この先の出会いを先取りしたのだろうな。つまりは彼女がそのような中傷にダメージを受けるのだ、と自ら言いふらしたのだ、弱点を一つ見つけた。まあ、しかし顔を合わせることはあっても声をかけたりは、よほど苛立ちに駆られていない場合を除き、miyakoはこれっきりの関係であれば、とアイラは思う。

K国際空港二階 出発ロビー 60番ゲート前

「こんにちは。アイラさん、だよね?」確かめるような口ぶり、視界の左端に女性が顔を屈めて立つ。長いコートを羽織る、毛量の多い痛んだ髪、何者であるかはアイラが知るはずもない、彼女は人の名前を覚えない。
「はい」そっけなく答えた、いつもの口ぶり。
「隣、空いてる?」気取った音質、かしげた首、浅黒い肌。なぜ、髪の色が茶色なのか、その質問に応えてくれれば、いくらでも私の隣を空ける。
 席に座る。その先はつまり、私に話しかける機会を間接的に、その許諾を得ようとする事後報告。正面切っていえないものだろうか……。
「席は空いています」
「ははっ、話に聞いてたまんま。君さぁ、歳は、いくつぅ?」許可を下した覚えはないのに、女性は隣に座った。コートが開ける、気温の日較差を懸念しての対応、あるいは国内の移動であるならば北へ飛ぶのか。しかし、ここは国際線の出発ロビーだ。とすれば日本との気温差が少ない地域へ移るのだろう。
 相手を見据える。
 彼女、突然現れた人物をファンや一般市民から除外した。「聞いていた」、というフレーズが引っかかった。
「失礼ですが?」アイラは名前を尋ねた。
 含みかけたペットボトルの飲み口と女性の唇が一定の距離で止まる、白目の目立つ大きい瞳が私を捉える。「ぼくの名前、ほっんとに知らないの?」フランクな口調は大げさに映った。
「はい」
「そっかあ、時代ね。年末の年越し番組も何回か出場しているのになぁ」波紋を打つ湾曲したガラスを見て彼女は悲しげに言った。しかし、それほど気分の落ち込みは見られない。耐性は作られている。
「私はテレビを見ないので」アイラはそこで横にねじる首を正面に戻した。
「ぼくね」かすかに含み笑いが漏れる。「ツアーの参加者なの」
「あなたは歌い手ですか?」アイラは訊いた、タバコは四分の一が消化する。
 天板の焦げ痕対策に開けて覗く灰皿の内部、ステンレスには僅かに周囲と隙間が見られ、縁にアタッチメントがつく。くり貫いた局面に沿って円筒のくぼみがせりあがる仕組み、レバーを押すと引きあがった。これは手動か、なんとも不合理なシステム。質問の答えをきく。
「そうね、本業は歌手だって公言してもいいかも。ただ、定期的に新曲を出してはいないのよ。私は歌う専門で作曲はできないの、才能ある君と違って、ね」やっかみは通り越した、諦めが幅を利かせる、手を打てばいい、今からでも遅くはないだろうに、これもやはり生活という不自由な足かせを自らはめたのだろうな、とアイラ。女性は大げさに声に近い息を吐いて言う、実に弁解がましい、手振りが煙の流れを変える。「勘違いしないでくれよ。目的は本場のロックスターがお目当てなんだから、だけどこれも内緒ね、だって参考にしてるって思われるでしょう?搭乗のチケットは偶然手に入れたんだ、スケジュールの都合上君の便が最適だったのよ」
 つまり、観賞する姿をアイラたちの関係者が目ざとく発見、歌手本人である事実をアイラに知れ、業界のベテランが後輩の、まだデビュー三年目でありながら昨年のトップセールスを誇る新人の動向とその演奏の研究を画策しているなどとは決して思われたくはない、との心情を彼女は打ち明けた。
 理解に苦しむ。が、流行という周囲とのバランスに生きる者にとっては死活問題に発展しかねないのだ、……あきれるほど窮屈で無機質な世界にいつまでも縋る、か。アイラは半眼にタバコを愉しんだ。
 二言三言言葉を吐いていたが、アイラは女性歌手が席を離れた直後に出会いの記憶を取り去った。覚えておく必要性にはひどく欠ける。取り出せない位置にしまおう。完全に捨ててしまえるが、念のためにかすかな可能性のために。危険を含んだ因子なのだろう、完全な抹消に待ったがかかった。白紙に戻せば、ゼロからイチの強烈な力に晒されるのだ。
 覆い尽くすサングラスをかけた女性が二つ席をおいて腰をかける。無骨で直線的な身のこなし、筋肉に頼った偏る動き。後年に待ち受ける悲惨な状況を当人は想像にすら上げていない、そればかりか数十年後の未来すら行き当たりばったり、思いがけず想像に上がる日常はしゃにむに仕事に休みに費やされる。
「私、誰だか知ってる?」
 皆、自分の名前を忘れてしまったらしい。
 横柄な態度に受け取られる、という心配はどうやら二の次に追いやる。
 ストッパーの吸音材に頼りきった乱暴な引き戸の扱い、
 登場シーンはいやが上にも彼女以外の喫煙者に知らしめた。
 問いかけられた者は認識を遅らせる。あなたには関心を寄せてはいない、興味はないのです、とアイラは意思を示した。
「おい、よう!知らないのかって訊いてんだけど」サングラスのブリッジをずらす、瞳をこちらに見せた。アイラは横目をぎろり、音圧の発信源に向ける。
「初めまして、こんばんは」
 体の二倍ほどの矜持が拡大と収斂。冷風が通り過ぎた。私は誰、と問いかける女性は指差して放つ。「……あんたさあ、アイラよね?アイラ・クズミでしょう?」喫煙室の見知らぬ同席者が毛羽立った。一度に顔を向けると、人の動作でも知覚可能な音量に引きあがった、実に興味深い。
「だからどうだというのですか」タバコを捨てようか迷った、まだ続きそうな話の予兆をひしひし感じる。言葉に詰まったやり取りの間が席を立つきっかけを作るタバコの吸いきりに適当だろう。
 いつも最善ばかりを探す。それがことごとく裏切られる。無自覚を胸に掲げる者の楽しげな生活が視界に飛び込んでは消える。タバコなどをはじめ体に害を及ぼす成分を取り入れている意識はある。自浄作用を超えた毒による死が食料の摂取に付きまとう制約下に、生体維持が摂取する物質をやり込めたことで体の機能を損なう危険性を公言しつつ販売を許可する実態は、政治的な背景が見え隠れ、いいや姿のほとんどは視認されている。これが日常成り下がった。つまり、販売は買い手が存在するから続くのであり、需要が見込める、販売を許可する法規制を意図的に作り上げることは大勢の利益を叶えられる。音を奏でた背後のビジネスマンたちも自身の生活と地位を守もらなくてはならない、生活は第一の優先。介在の手助けは紙幣か、最近は特に姿を見かけない。アイラが持ち歩くお金といえば、スタジオまでの往復の電車賃と昼食代の五百円、ブース内のコーヒーで水分補給は済ませる。
 何事かを女性はわめきたてる、無法者がいつも意識を引き戻す。
 女性はアイラに問いかけの返答を願う。しかし、答えない権利はアイラに帰属する。問いかけがそちらに付与、と同時にこちらにも権利が与えられる。礼儀、普段は忌み嫌うばずがこのときばかりは持ち出す人も多いように思う、目を見て話せという迷信も発話者が聞き手と対等な立場にまずは一段降りて話かけるべきだ、私心が含まれているのであれば、その事実は明らかにしてからが平等にやっと耳を傾けられる。過去私に降りかかった災難の大半は返答の有無、主に無視に関する態度に向けられた沸点の上昇であった。思い通りにいかないことが発話者にとっては苛立ちを駆り立てる、屋外であっても、まあ自室の室内でも褒められた態度ではないにしろ、要求を突き通す押し通す気概は厄介だった。ゼロか百かの確率論は捨てるべきなのだ、こうした身軽な私でさえ、執拗につきまわす視線に晒され、時には現在のように演奏前の貴重は時間を奪われる。

K国際空港二階 出発ロビー 60番ゲート前 

「職員専用の特別ルートを通れましたけど、今から引き返したいって言っても応じられませんからね!」ご立腹、カワニの態度は表情との不一致が認められる。所属事務所プリテンスの楠井と専属スタイリストのアキが彼に続く、空港ロビーの利用客はまばらであった、規則的な生活習慣を送る者は意識を失う時刻である、家を出たときは日が落ちていた。
 楠井とはなじみが少ない、今回彼女は不測の事態に備えた事務所側の女性陣、という立場を与えられた。異性のカワニでは要求が難しい事情を考慮したのだろう。葬式にでも行くような装いである、真っ黒のスーツに身を包む。彼女の一張羅なのだろうか、対外的な応対を兼任、ということも考えられるか。香水は多少つけすぎてるから、そのあたりは忠告しておこう。大型のトランクはカワニと楠井の二人、アイラとアキは小型のトランクを預け、搭乗手続きを済ませる。予備のギターも預けた、これはJFA航空の地上係が機内の客室乗務員に手渡す。手荷物検査、出国手続きを通り抜けた。外国人のそれも多数のさまざまな大きさ形状の革のケースを移動用のカートに縦に並べる数十人単位の集団がベンチ一帯に固まる。
「オーケストラでしょうかねぇ」手続きを済ませたカワニが隣でつぶやく。
「打楽器も個人の所有なのでしょうか?」アイラはきいた。
「楽団の所属では個人というのは考えにくいでしょうかね。調べてみましょうか?」
「いえ」
 先を進んだアイラは行き先を誤った。カワニの案内を受け、滑走路を見渡す特等席を勧められた。
 周囲が放つ視線を感じる。当然同乗者は皆、アイラを目当てのお客なのだから、いつも浴びる視線とは種類が異なるか。彼女はギターケースを椅子に立てかける、リュックも下ろした、贅沢に二席を使う。
 カワニは端末に出て、その場を離れた。
 機体が安定した航行を保つ高度に達し、準備に取り掛かる。
 アイラはシュミレーションを脳内で行う。鮮明な映像に上げられないものは現実に披露することは控える、彼女は自由度の高い創造の確かさには懐疑的だ。極力不確定な要素との係わり合いを避けるし、かといって何もかもすべて一人で、というのはこの世界では困難を極める。妥協。大いに彼女を取り巻くあらゆる世界が打算的な構造、仕組み、働きであるように感じてならない、ふしだら。フライトについて愚痴をこぼしているのとは異なる。不測の事態は起きる起きないに関わらずスケジュールに組み込む、あらじめを人は不幸な出来事と捉えがちだが、私にはランダムに、そして無秩序、遠慮なしに流れを断つ厄介な現象と早々に手を組む。 
 タバコを吸うため、席を立った。両脇に座るスタイリストのアキと楠井が見上げる。二人にギターの見張りをお願いした、リュックもだ。私の帰還先を二人に教えてあげた。
 アイラの荷物はいつもギターケースのポケットに収まる、それぐらいに荷物は少ない。いわゆる女性が持ち歩く化粧ポーチはそもそも購入した覚えがない。すなわち、化粧品の類は自室、屋外に関わらず彼女の個人的な所有物として存在を許されていない。無論、そういった人物は概して化粧による変化、変装の必要がないからだ、というやっかみが聞こえてきそうだが、彼女生来の気質が化粧の不必要さを跳ね除けてしまう、容姿の良し悪しは外側たちの判断が主だった角度であり、そもそも鏡を見ない彼女である、これで一応筋は通るだろう。
 アイラはゲートに着く道すがら視界に入れた喫煙室へ向かった。つま先を見つめる。気分は上々、高揚と緊張の二つを孕む。
 化粧について、考えが及んだ。のっそり、採掘機械に似た乗車型の清掃車とすれ違う。近未来だとこれは人工知能を組み込む。人の家を掃除するロボットが巷では出回り主流な家電製品の地位を獲得してるらしいが、このような場所での代用には不向きなのだろうか。人件費の削減と会話を可能とするロボットでは愛くるしさに勝る後者が利用客には好まれ、昼夜を問わずして働く彼らは優遇される、と思う。
 私が属する業界ではカメラに撮られる者は性別を問わず、顔に化粧を施す。だが、私といえば、スタイリストの適宜な最低限の施しが標準となる。つまり、より良くよりもこれ以上悪く見られないようマイナスの要素を消してもらう、といえば通じるか。私の言葉は不足らしい。しかし、懇切丁寧に詳細を語ると、今度は情報量が多すぎてしかも早口で理解が追いつかない、という。
 まったく、そう、まったくなのだ。
 見世物小屋風の喫煙室に入る。植物園を連想させる灰色のうす曇のガラス、内側に傾く造り。贅沢と無駄を履き違えた空間を取る頭上。排気システムの関係かもしれない。等間隔に細く白い柱、デザインか補強のための部材か、ペンキで塗った印象を与える。ガラスは二枚だろうか、特殊な加工を施してあるようだ、屈折した光が通路の視線を遮っていた。曇りガラスに映る影は人の通過をかろうじて知らせる。
 頭皮がひどく痒い、帽子をかぶらされた、カワニの指示である。アイラは入るなり、素顔を晒した。部屋には三名、すべて男性である。一人はひたすら端末に夢中、もう二人は商談だろうか、綿密な打ち合わせに忙しくタバコは口にも指の間にも見あたらない。ドアの横に自販機を見つけた、缶コーヒーを買った。通路に面したスツールに腰を下ろす。
 カウンターに丸い穴が開く。
 席に座るとセンサーが働くようだ、不意をついたトイレの開閉を思い出す。といはいえ、どこかで取り入れた記憶はありあり蘇る寸前に姿を消した、喫煙室の消臭機能が記憶の燻りを吸い込んだらしい、彼女は平然と記憶の後姿を見送った。
 これから演奏に取り掛かる。
 演奏の開始時刻は本番その時まで非公表、これはチケットの予約時に伝えた。期待感を煽る趣向、引き延ばしを今回は取りやめる。普段の演奏である定期ライブでならば、お客の期待を裏切って一曲目に早々新曲の披露に打って出たり、会場準備を装った開演時間を遅らせるアナウンスを流しお客がざわつき始めた頃合を見計らって、突如スタッフにまぎれたアイラがステージ上に上がり歌を届けるなどの、そういった手法を今回は封印する。なにしろお客には一度、冷や水を浴びせかけたのだ、これ以上の引っ張りは懐疑心を生みかねない、と本番に挑む気構えをアイラは浚った。
 そういえば、新曲の要請が数日前に届いていたか。クライアントとも顔を合わせた。車のCMに起用したい、取って出しの製作依頼である。最近はこれが多い。スポンサーが製作費用を持つ、ほとんどCDの発売は付属品、これが的を射た表現に思うのは私だけだろうか、アイラは煙をゆっくり長く細く吐いた。
 空港内と隔絶された視界、圧迫感がもたらす気分の落ち込みの軽減に透明なガラスを採用したのであれば、誤った選択だろう。誰もが、わずか数分の喫煙に開放感を欲しがるのか?それならばまだ許せる。ここは明らかに一線を越えてしまった、姿は隠しなおかつ他所の動きは視界の納める、身に潜む支配欲の賜物、いいや結晶に違いない。
 贅沢な計らい。
 現在おかれた喫煙者の立場を鑑みると、タバコを吸えるスペースがあるだけでもありがたい。非喫煙者が守られる立場であり、権利を声高々に主張することもまた、当然との概念は捨て去るべきだ。