「いいねえ」多田は口を左右に引く。「樫本は留学の帰国に合わせて毎度、合計で二回か、留学先の建築プロジェクトを持参するんだ。セレクションを行う案件ではなくて、この事務所への直接オファーだよ。これがどれぐらいあり得ない事態か。刑事さんたちに例えるなら、うーんそうだなあ、三億円強盗事件の容疑者が自首に付き添ってくれと願い出ることかな」
「失礼ですが」熊田が言う。「それら樫本白瀬さんの持ち込んだオファーの他に、この事務所は定期的、つまり経営を維持できるほどの状態にあるでしょうか?差しさわりのない範囲で構いませんので応えてください、ノーコメントでも結構です」
「厳しいね、かなり厳しい。従業員の労働における時間数と対応する仕事量・質が噛み合っていない。極端に忙しく、極端に暇が大まかなスケジュールで僕は今日も事務所で寝泊まり」多田が言い終わると電子音がコーヒーの出来上がりを告げた。夢うつつの相田がぱっと目を覚ます。鈴木は難しい顔でテーブルを睨みつける。
女性は席を立たずに座ったままで、多田が運ぶコーヒーを受け取る。熊田たちにも運ばれた。彼は、空いている彼女の対面に細長い息を吐いて腰を下した。瞼と目の下はうっすら黒ずんでいる。
「どなたかにつきまとわれていたり、交友関係にトラブルがあったりなど、そのような話は樫本さんから聞いていませんか?」熊田はコーヒーに手をつけずに質問を続けた。あまり時間を空けると、相手のペースに飲まれる。多田という人物は、言葉を濁すのが上手い。嘘に真実を織り交ぜる手法を知り尽くしている、これは熊田の直感である。
「先ほども言ったように彼女は事務所にはほぼ出てこない。外部との交渉、接触、営業は個人で行う。大規模なプロジェクトにおいては、ええ、全員で取り組みましたが、それもみごとに泡と消えましたので、今では気分を改めて各自が動いている、そんな状況ですよ。だから、事務所でのすれ違いも度々ですし、意思疎通はすべて端末で行っています、端末の電源が確保された環境なら、フルタイムでつながります。僕みたいに深夜に起きている人種がマジョリティですから」
「メッセージのやり取りで、たとえばですが、個人的な会話もありうるということでしょうか?」
「その辺は、想像に任せます。小さなコミュニティであまり大々的にプライベートをさらけ出したくない、皆さんだって仕事上の付き合いだけに留めたい、見られたくはない、できれば隠しておきたい領域があるはずです」
「いいえ、強制ではないので。可能性を知りたかっただけです」
多田は片目を瞑る。「男性との目撃情報は、僕が知る限りで二回寄せられていました」