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空気には粘りがある2-3

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 ほんのわずか数秒に鈴木は別の空間にいるような感覚を味わう。ここがどこで視界に映る人は誰かを認識するのにまた数秒。見上げる2つの目はじっとこちらをみていた。

 「あの、大丈夫ですか?」鈴木はカウンターに右手を添えて倒れないように指先に力を込めて体勢を維持していた。

 「大丈夫です、ちょっと寝不足なだけですから」軽く微笑し、取り繕う。「早手さんはどういった方でしょうか」鈴木は気を取り直して久しぶりの徹夜に体をならそうとする。あと数時間もすれば、眠気や疲れも体の奥に仕舞える。

 「えーっと、そうですね、明るくはないけれど話しかければ答えてくれます。物静かですけど……」総じて明るく快活で人付き合いがよく、友達がいて恋人がいてが、亡くなってからの故人を表す褒め言葉だと思っているようだ。暗くても、物静かであってそれが亡くなる要因には結びつかない。

 治療を終えた患者が歩いてくる。カウンターの左手、ここからでは見えない奥まった場所が治療の場所なのだろう。涙を押さえていた受付嬢はやっと己の職務を思い出して気持ちを整えた様子。快活な好奇心仰せいなもう一人も居づらそうに周囲をうかがう。警察がここで堂々と話を聞くべきではないといいたげである。

 「あのどちらかでもお仕事を抜けられませんか。ほんの少しの時間でいいので場所を移して聞かせてもらえませんか、ここだと何かと話しにくいですし」

 「でしたら、そちらのブースで」受付をもう一人に任せ、快活な方の彼女がカウンセリングブースに案内する。壁には歯の治療に関するポスターやここでの過去の実績などが安心をうたって張られているのが目に付いた。

 2人は面と向かう。

 「早手さんは0市Z町で発見されました。その場所に思い当たることはなにかありませんか?」彼女が座ると同時に聞いた。彼女は思い出すように右斜め上を見てから答えた。

 「あの辺りの海水浴場に去年の夏に遊び行ったって話していました」

 「どなたと?」

 「そこまでは、でもだってねえ、それは彼氏でしょう」

 「そういうもんですか。最近はそのお付き合いをされている男性の話はきかれました?」

 「いいえ、そんな話めったにしませんから。ここって交代制だから話すとしたら患者がいない時間帯だけど、それでも他に仕事があるから雑談とか深い話はしませんね」

 「あなたは昨日、仕事を終えてから真っ直ぐ帰られました?」

 「ちょっと、これってドラマとかで見たことあります。へえ、本当にそう話すんですね」

 「一応は。それで昨日は?」鈴木は年下であろう女性への対応にひるみながらも質問を続行する。

 「帰りましたよ、昨日はああ、駅から家までにコンビニに寄りました」思い出した箇所で彼女は多くに二三度頷いた。

 「そうですか。クリニック内で特に早手さんと親しい人はいるでしょうか?」

 「いないと思いますよ。治療を行う人たちと私たちはその立場と言うか医者と受付事務の関係みたいで、同じ職場だけれど顔を合わすけど接点はあまりないんです」受付で電話がなる。彼女は受付のほうをみやる。もうひとりは会計と電話と次の患者の呼びかけにあくせくしていた。

 「あの私もう戻らないと……」彼女は腰を浮かせる。すがるような目でもう一人が彼女を見ているのだ。

 「ああ、どうも忙しいときにすいませんでした。また、伺うこともあるかと思いますので、……」

 「はい」そう、いい残して彼女は受付に急ぎ鳴り続いている電話に手を伸ばして鈴木と話していた声とは別種の高く細い声で対応に当たった。カウンターを通り過ぎるときに鈴木は対応の追われる二人に頭を下げた。エレベーターの下降ボタンを押してからこのクリニックの代表と会うのを忘れていたと気づく。まあいいだろう、どうせ忙しいのだ。営業時間の終わりごろに出直そう。そう鈴木は、考えながら上昇しいったん上まで上がり、降りてくる箱に乗り込んだ。

 

 

空気には粘りがある2-2

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 デンタル・ゼロ。

 エレベーターの扉が開くと、すでにそこは会社である。社名のとおりに被害者の勤め先は歯科医院である。曲線を帯びたウッド調のカウンターから二つの小さい顔が見えている。室内にはかすかに聞こえる程度の音楽が流れていた。

 「すいません、こちらで早手亜矢子さんが働いていると思うのですが」

 「……あの、今日はお休みでして、失礼ですがそちら様は……」隣の似たような顔の同僚と視線を交わしてから伺うように言葉を続ける。鈴木は立ち込め始めた不穏な空気を即座に取り除く、とっておきの、伝家の宝刀・警察手帳を掲げた。受付嬢の表情は明るくそして影をつける。「早手さんに何かあったんですか?」治療を待つ患者に聞こえないように小声で問いかける。待合室はエレベーターの正面に位置する。奥は窓に面し、両サイドは壁と、腰までの高さの真っ白な本棚で遮られている。

その上部は刷りガラスだ。ガラスの隣はカウンセリングスペースが設けられていて患者側に二脚の椅子、テーブルを挟んだ奥に医者の席と角度のキツイpcのモニター。待合室の端の位置からだと受付の様子は丸見えである。

 「大きな声を出さないようにお願いします」鈴木は二人に前置きのクッションを入れて話した。「実は、昨晩にお亡くなりなりました」エッと息を呑む二人の声が瞬間に劈いた。幸いにも、こちらの伺っている者はいない。

 「亡くなったって、どうして?」もう一人は、口を押さえて呼吸もやっとの状態だ。そのとき、エレベーターから患者が現れると受付に診察カードを置き、待合室へ。一度目が合ったがすぐにそらされた。

 「詳しくは申し上げられません。まだ捜査の段階なので」

 「捜査って、事件に巻き込まれたんですか?」 

 「いや、ですから、事故なのか事件なのかも詳しくはわかっていません。今日は彼女も出勤の予定でしたか?」相手からの言葉攻めに対抗してこちらから話を振る。受付嬢の一人は割りと気丈に振舞って、正義感を持ち合わせているようだ。もう片方は、いつの間か取り出したハンカチで化粧が落ちないように器用に、涙を拭いていた。化粧に気を使う余裕はあるらしい。

 「そうです、今日は私本当はお休みだったんだけれど、急遽出勤してきたんです」鈴木に慣れたのか、興奮したのか受付嬢の口調は多少フランクに友達との会話に語尾だけをですます調に変換した話し方に切り替わった。

 「早手さんは、昨日は出勤していましたか?」

 「はい。一緒にここを出たのが9時半ぐらいです」都心部に歯科医院は客のニーズに合わせて営業時間も他と比較すれば長い部類に入るだろう。

 「早手さんの自宅に行かれたことはありますか?」今度は隣で泣いている受付嬢にも言葉を振るが返ってくるのは一人からだけである。

 「知らないです。あまり、親しくはないですね。会社以外でわざわざ休みの日に会うなんてこともないですし。ねえ」同意を求めて隣には話を振るが話を振られた方は感情を抑えきれないでいる。

 近くで生きている人は突然に、いまのように亡くなりはしないと思っているのだろう。鈴木は刑事だから特別に死に対しては鈍感でいられる。しかし、それは鈴木に自身に備わっていた機能であり、結果として選んだ職業に適合したためにアイスマンと揶揄された性質が肯定的に捉えられた。

 悲しくて泣くと感情が豊かだと言われる。はたしてそうだろうか。

 たとえ家族であっても自分ではないのだ。鈴木は、自分の考えを人に話したことはなかった。取り立てて言うべき内容でもないと思えていたし、また理解を求めてもいない。他の別の、違う、異なった考えがあってもそれはそれなのだ。判断も詮索も決定もレッテルもない。ただの人の意見でしかない。

 こう思うとまた、変だといわれそう。言ってもいいが言わない方が世の中をうまく泳げる。どうして自分の事を話さないのかと問われても、周りが理解を求めなくなれば、おのずと話すだろう。話して欲しいのはあなたが話したいからだ。自分がぺらぺらとしゃべる様にいくらかの罪悪感を抱いているのに。

空気には粘りがある2-1

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 現場からめぼしい証拠は出てこなかった。夜が明けてからも捜索は引き続き継続されていて、むしろ明るくなってからの方が仕事ははかどったぐらいである。熊田も捜索に参加し、あたりの地面を細かくチェックしていったが、何も出てこなかった。被害者の遺留品を探すのは、明確に財布や携帯を捜すと決まっていれば、それらを思い浮かべての捜索になるので、具体性を欠いた現在の熊田たちには空気を掴むような手ごたえのない作業であった。

 人通りが増える。時間は午前七時を回ったところ。学生や会社員が駅に向かい坂を下りていく。何事だろうと立ち止まる人はいない。だれもが足を止めずに、乗る予定の電車に合わせて通過していった。最寄り駅では種田が目撃者を探している。知っていたとしても、電車に乗り遅れないように自ら名乗り出て朝の貴重な時間を消費する者はいないだろう、もっとも名乗り出てくる者の大半は暇な時間のある人ばかりだ。正直で正義感のある目撃者はほとんどいない。忙しいから偉いわけでもないか、熊田は見解を訂正した。屈んだ腰が張っている。

 捜索の作業はあらかた目処か付いた正午過ぎになって打ち切られた。現場付近に、証拠となる物証はないとの判断である。捜索が打ち切られた理由は、鈴木からの情報に大きく左右されていた。被害者には、捜索願が今日の午前中にから出されていたのである。

 署に帰った鈴木が検死官と鑑識から手がかりとなる物証の有無を尋ねたが、特に身元を証明するようなものは発見できなかった。遺体に付着していた土や草なども現場で付いたものと断定され、被害者以外の痕跡は皆無であった。

 鈴木はそれらの業務を終えてデスクに戻る。

 もうお昼近くの時間である。長丁場になりそうな予感がしたので休憩のために喫煙室に入った。被害届けを受理した同僚からその話を聞いて、念のためにと調べてみたところ、添付されていた顔写真が現場の死体と酷似していため、真新しい煙草を捨てて被害届けを提出した家族と連絡を取ったのである。

 間違いかもしれないとの前置きをしてから、検死を終えた遺体に呼び出した母親を対面させた。鈴木が顔に掛かった布を取ると母親は泣き崩れ頬をさすり、言葉にならない声を上げた。 

 鈴木はいたたまれない気持ちを抱えていてもこの場から離れられない。どうして、うちの子がと言うセリフを何度聞いただろう。事件や事故は新聞やテレビの中の出来事であって私たちには降りかかってこない。現実とは乖離した出来事であるとの認識なのだろうが、実際は明日や数時間後に身に降りかかってきてもおかしくはない。

 鈴木が刑事であるから一般とは多少事件に対する頻度の把握の違いはあるだろう。しかし、刑事たちは明日はわが身と心構えはできているのだ、だからこうして冷静に勤める機能も有している。

 母親が落ちつくのを待って鈴木は署を後にした。捜索願の書類には彼女を表す情報が網羅されており、精神の不安定な母親から聞くよりも的確でいて私情を挟まない情報が得られた。署から駐車場の車までに熊田に報告を入れる。

 「じゃあ、そのまま被害者の勤め先と当日の行動を調べてくれ」、と熊田からの指示で鈴木は書類に書かれていた彼女の勤務先に向かった。

 目的地は、S市の中心街。オフィスビルが立ち並ぶS駅周辺にあった。何度か一方通行の道路で行く手を阻まれたが、ようやく目的のビルに到着した。車はちょうどビルの前にあるパーキングエリアに止める。ビルは茶色の外観、エレベータホールはこぢんまりとしたマンションを思わせるつくり。中規模のビルである。1階で会社を確認して、5階を目指した。

 

空気には粘りがある1-5

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「斜面から落とされてこの場所へ転がってきたとは考えられませんか?」種田の視線はさわさわとうごめく得体の知れない自然を捉えている。

「ぱっと見たところ、死体には土や葉や草木の類は地面に接していた体の前面にしか付着していない。上から落ちてきたとしても木に引っかかる」実験で試したわけではないがおそらくは人がスムーズに落ちてくる可能性はほとんどゼロに等しいだろう。

「鈴木、仕事」

「あっ、はい。じゃあいってきます」2人の会話に聞き入っていた鈴木は我に返るとちょこんと熊田に頭を下げて小走りで去っていった。

「では、私も捜索に参加します。熊田さんは?」聞き忘れていた質問を再び種田は繰り返した。

「ここに死体があった理由を考えてみるよ」

「煙草吸われないんですね」日にひと箱を吸う熊田にしてみれば種田の計算だと忙しいときでも一時間に一本は吸っているが現場ではその姿をまだみてはいなかった。「忘れたんですか?」

「ああ……。たぶん車にあると思う」

「鈴木さんからもらってきましょうか?」 

「どうして違う銘柄の煙草はおいしくないのだろうかって思うんだ」熊田は唐突につぶやいた。熊田と鈴木の煙草の銘柄は異なる。

「ええ、ありますね。しかし、ストレスの発散が目的なら、肺に入ってしまえば変わりないのでは?」

「そうだな」うまく丸め込まれて熊田は種田が後を追いかけて鈴木からもった煙草を一本もらい歩道まで移動してから火をつけた。煙草と一緒にライターと携帯の灰皿も渡される。まるで、子供への母親からのあなたのために用意した装備を安全のためになすがままに装着されているようである。