コンテナガレージ

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パート3(6)-7

「ねえ、どうしたの、その色。ペンキじゃないの」洗面所、鏡の前に連れて行かれる、右腕、肩甲骨から肘にかけての背面にピンク色の塗料の付着が見て取れた。塗りたての外壁にもたれ掛かって、色がついてしまった、そんな状況を連想する想像上の出来事に近い、と僕は思い浮かべる。

「公園のペンキ、鉄棒だと思う」僕は現象を報告した。母は、訝しげに見つめていた、たぶん僕に対するいじめの可能性を見出しているんだろう。だが、それならば、もっとわかりやすくまた大々的に汚すのが、相手の反応を見たい加害者の心情でないか。見えない場所が汚れていても、本人は気がつかない。もちろん、時間差で気づかせる魂胆なのかもしれない、しかし、長期的で連続性を帯びていなければ、加害者にとって僕への攻撃は遊びにはならないはずだ。今日は休日、クラスメイトと接触する機会は皆無。近所のそれらしき人物は住んでいるが、互いの家を行き来したことも当然ない。

 母親の心配に反して、塗料は比較的簡単に落ちた。服の素材と塗料の性質が合わなかったらしい。出前をたいらげて、キッチンは母の仕事場に変貌を遂げたので、僕は自室に引き返した。

 風景画のカレンダーに丸がついていた。思い出した、僕が死角を取り戻す日だ。やっと開放される。見たいものだけが見える世界に戻れるのだ。もう散々。何が楽しくて、人の裏を見たいと思うのか。死角が誕生してからは、視点移動がもたらす残忍で自分勝手な人の一面ばかりが目に付いた。僕もその一人である。だって、これまで向き合わなかったのだ。ああ、僕はベッドに倒れこむ。でも、短い髪は嫌い。せっかく伸ばした髪をまた切ってしまわれたら、と思うと一体化には後ろ向き。

 どっちが優先されるんだろうか、ずうっと前のこと、出来事、記憶をさらっても、イメージはぼやけた印象の写真しか取り出せない。低能なシステム。多分、どちらで記憶するか迷っていたんだろう。より高度な情報を、光を取り入れる瞳か、高解像を捨てた内部優先の瞳かを。だけど、内部を見つめすぎて、あだとなったのはいなめない。

 月が綺麗ね。カーテンが光を取り入れた。暗くても遠くが見えなくても、暗くなければ月の明るさは知れない。真昼の月でも僕は満足できてしまえるかも……。

 犬の遠吠え。番犬が好き、侵入者吠える玄関先の光らせる目がタイプ、潔くて、外部をいつも見張ってる。餌のためではなく、飼い主への忠誠を誓ったまなざしが好み。

 消えてしまいそうな僕を思い出せるように、データを作成しなくては。

 検査の前日。母の外出にて、僕は裏の家で彼らの要求に応じた。

 アウトラインを構成。瞬時に思い出せるまで骨格を入念に製造。つながりを重視。後は流れるままに自動書記。

 物語を読み進める、ページをめくる指先が抗っているように、データを完成させた。

 日中の気温で融けた雪が水に変わって軒先に滴る。

 雨が久しぶりに思えた。こうしてまた思い出せるのだろうか。

パート3(6)-6

老人は続けて話した。「家には誰もいないようだったね、鍵がかかっていた。家に電話を入れたら、繋がってお母さんと連絡が取れたよ。どうする、家で待つかな、それとも君の家に帰るかい?ああ、その前に、体は大丈夫?」家の電話は一定のコールまでかけ続けると、母の端末に転送される。自宅の電話が転送されるイコール緊急事態なのだ、僕は瞬時に忙しい母が電話に出た理由例を挙げた。多少後頭部に痛みと熱を感じたが、僕は黙って首を縦に振って無事をアピールした。その証拠にカップを一気飲み干してみせた。年配者への気遣い。左に回した首が重たい、読書が原因だろう。

 きしむ階段を下りて玄関を出た。向いの老人に一礼、ドアの遮蔽音を耳で聞き取って僕は立ち止まって眺めた。騒がしかった通りは、歩道脇に飛び散ったライトを覆うカバーの欠片が取り残され、住人も事故車も消えていた。さっき見た映像は夢だったのか、僕は視覚を疑う。足取りをたしかめるように通りを横断、僕は老人宅の玄関隅に立てかけられたゴルフバックと茶色のショートブーツを数時間前の記憶と結びつけた。

 偶然だろう、ブーツはログハウスの老人が履いていた靴と酷似していた、同じ製品である確率は高い。手に持っていたのはゴルフクラブだった。しかし、ログハウスの老人と向いの老人の顔かたち、背丈、風貌はもろもろ同一人物という認識を僕に与えない。人を認識できない病気ということでもないんだろうか、現に向いの老人として会話をしたのだ。しかし、だからといって彼らを、行動を否定する材料が足りないのも事実だ。

 見えなくてもいい所が最近は見えてしまう。真実は残酷なのだと言い聞かされているように思えた。仮に、視野が確保されていたら、相手の隠された持ち物やブーツの種類は覚えていなかったはずだ。

 母の帰宅までは、室内で縄跳びの練習をカメラに見せつけた。母は帰るなり、僕の身体をつぶさに触って傷の有無を半ば嘘を吐かせるような形相で追及した。けれど、無事がわかると大きなため息をついて、ソファに寝転び、夕食の出前を僕に懇願するのだった。不安定な心理状態が安定に戻る、人は安堵しこれまでの要求を忘却する機能が特定の人間には備わっているのだろう。期待はしていない。むしろ、こうしてパターン化された行動を取ってくれたら、僕の安心が高まる。

パート3(6)-5

 ドン、次の瞬間に衝突音が聞こえた。

 首を伸ばして、前の通りを眺めようとしたら、鈍痛。意識が遠のき、視界が雪みたいな白にすりかわった。

 暖かい空気が纏いつく、過剰な室温の高さ。

 僕は起き上がる。髪が遅れて背中に当たった。外ではない、室内だ。白壁と枠を縁取る黒が印象的な部屋で僕は意識を回復したようだ。シーリングライトが天井の低さを感じさせないし、置かれた家具もすべて低く、体重を預けるベッドもモダンなリゾートホテルのような雰囲気である。

 レースのカーテンの片方から外が見える、僕は立ち上がり、眺めた。すると、自宅がまっすぐ目の前に見えている。そして、意識を失う前の音の正体も同時に確認できた。坂を下る車が三台駐車した車にぶつかっていたのだ。近所の人が溢れて、警察も救急車も登場している。考えにくい状況ではある。だって、この場所で僕が自我を形成して以来、事故は起こっていない。住宅街であり、それも閑静なという名称が必ず頭につくほどのいわゆる高級住宅地。ドライバーの操作ミスとも思えない。雪は日当たりの悪い民家の庭に見られる程度で道路の雪は融けている、首を捻る、初心者の単純な運転だろうか。いいや、ただの下り坂。アクセルとブレーキの踏み間違いと急で誤ったハンドル操作が複合的に表現されなければ、起こりえない状況。後続の二台は衝突したと見られる車に接近していたのだろうか、でなければ回避は容易であったはず。前車が遅すぎて車間距離を詰めていた、という事態も予想は可能か。あれこれと騒がしい外の光景を眺めた僕を、ドアのノックが異空間に意識を引き戻す。はい、僕は返答、僕の家や部屋ではないのに。

 顔をみせたのは向かいの主人である。見知った人物。コーヒーを渡される、もちろんミルク入り。にこやかに表情が崩れる主人は言いづらそうに切り出した。

「あんなところで寝ていたら、君は今頃死んでいたかもしれないよ。北国の冬を甘く見てはいけないね、お嬢さん」語尾に多少の違和感を覚えたが軽く受け流す。

「気をつけます」僕はカップをわずかに引き上げて、暖かい液体が喉を通り過ぎる感触を体感する。顔を上げて、発見の状況を訊いてみた。僕が倒れた位置は物置の影と車道との高低さで向かいのこの家と車道からは角度的に発見は無理である。

「おすそ分けだよ、お隣さんが留守だったかr、君の家に持っていたんだ」老人は手を広げる。理解や同意を求める時に多く見られる仕草のひとつだ。セールスマンや固着した笑顔の人物が所有する動作である。「事故の衝突がその時に聞こえて、見えやすい場所に移動したら倒れている君が視界に飛び込んできたのさ。黙って敷地内に入ったのではないからね、断言しておくけど」地域は信用で成り立つ。特にこの一体は土地の高価格に治安が含まれている。ステータスのための購入者と安全を買う二つに住民のタイプは別れる。老人は明らかにステータスのための住人で年齢を重ね、後者に移行したと思われる。

パート3(6)-4

「私はあなたの死角を求める者です。家の裏手に移り住むあなたが、もし環境や家を提供した組織に嫌気を感じたのならば、私どもを頼っていただければ、共に有益な時間を今後は送れることでしょう。常日頃より、あなたを見張っています。探してもおそらくは見つかりません。無益なことに心血を注がないあなたはそういった暴挙には出ないでしょう、私どもも時間を有効に使いたいのです。ですから、より良い環境を求めるのであれば、是非こちらに合図をお送りください、すぐに駆けつけ望みの環境をご提供差し上げます。もちろん、あなたのデータとの交換条件ではありますが、その辺はご理解をいただけているものと解釈しています」カードに書かれた、ペンの細かな字。文字を見て人を思い浮かべる事は久しぶりの行為だ。内容は取るに足らない。あて先は不明、彼らに見つからないように合図を送れるのか、僕は考察してみた。所在の知れない相手に連絡を取る方法、しかも彼らの監視を掻い潜っての合図は、現実的とは思えない。彼らに知られてもかまわないといったスタンスならば、考えられなくもないが……。

 暖炉のそばに置いてあるマッチを手に取り、封書を燃やした。煌き。僕は相手の善意を返り討ちにしてはいないだろうか、沸き起こった疑念に答える前に、警報機が作動した。重低音が鳴り響く。半径一キロ以内に母の携帯が家に接近すると、警告を促すのである。折りたたんだダンボールを壁に立てかけてペットボトルの水を飲み干す。空いた容器はきちんとラベルを剥がし、キャップとボトルを分別。キッチン、シンク下の扉の内部に仕分けされたゴミ箱が用意される。これらの情報は、冷蔵庫に張られた一人暮らしの老人へ、磁石で留まった紙に書かれていた。警報機は、地下道の外部監視用のモニターと並ぶもう一台のモニターに表示された作りかけの文書で知ったのだ。地下を抜けてハッチをあける。ポケットのふくらみ、縄跳びの感触を確かめた。

 灰色の物置の壁、腰のあたりの空気口から漏れる光が一瞬途切れた、太陽が隠れたのか、それとも人為的な移動か。

 上がった息を整えて僕は外に出た。

 眩しい、強い日差しに負けて目を瞑ると、見上げた視線の先に寒空の下、無線を口元に寄せる人が隣家の屋根に立っていた。