コンテナガレージ

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今日からよろしくどうぞ、不束者ですが3-1

「店員さん、ちょっと」店員が飲み物を他のテーブルに運び、一礼、そしてこちらに店内の規則に準じた速度で近寄った。「二階の席に移ってもいいでしょうか」

 店員は伝票を手に取る。「はい」

 飲み物のコーヒーは一分ほど前に注文したばかり。ちょうど、傘を持った連中が雨宿りをかねてどっと店に入ってきた時間帯だと、金光俊樹は記憶する。言うほどのことでもないが自分は記憶力に長けている。しかも、数分前の出来事はとくに鮮明に思い出せる。

 はい、は了解の合図だったようだ、手を広げて階段へ案内を促した。伝票の右端上部<№>の欄に書いた数字の四に罫線が入る、これは予測するにテーブル番号。素早い店員の対応は新しい座席番号が知りたい、穿った見方だろうか。金光俊樹は組んだ腕を解いて、同伴者に移動を願い出る。彼女は目が見えない。見えていたが、見えなくなった。一人で出歩くのは怖く、こうして僕が重い腰を上げて、外出、外に慣らす役目を背負う。背負う、とは彼女の前で口にしたためしはなかった。いつ言うべきか、そのタイミングを今は見計らっている。金光のスケジュールが漏れているかのように、彼女の連絡は的確であった。「今日のお昼、空いている?」毎回その決まりきった問いかけに嫌気すら覚える。だったら、すぐに離れてしまえばいいのだが、そうもいかない。彼女は僕がパン職人のひとり立ちを見送ってくれたかつての勤め先の店主の娘である。離れれば他人も同然。パンに携わる職種でこれからも生計を立てるつもりの僕が振り切れるものか、金光は店員の整頓された眉の形状をしきりに思い出す。業界は狭く、噂は矢も立てもなく耳に届いてしまう。師匠と顔を合わせる機会が訪れたら、想像するだけでやりきれない。古いタイプの人間なのだろう自分は。金光はそう、評価を下す。

 階段に差し掛かり、歩調を緩めた。白いステッキ、真新しい先が革靴の側面を叩く。