コンテナガレージ

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踏襲2-5

 ギターを弾いていると、たまに曲に取り込まれる時がある。その正体を何なのかは、はっきりとしていない。歌詞もコードもお構いなしだけど闇雲に弾いているのではなくて流れるように音が連なる。一、二回。正確には二回だ。視界がシャットアウトされて別の空間に誘われたように想像の風景がプレハブの倉庫に広がったんだ。

 でも、ここしばらくは出会えていない。会おうとすると気分を害して出てこないらしい。歌手というのは常にあの感触を体現しているのだろう。

 気がつくと降車駅に到着して、危うく乗り過ごすところだった。ホームへ降りる階段は前方にしかないために自分のペースで歩ける。講義まではあと十分もある。数分前には教室に入れるだろう。

 そうそう、考え事の続き。二回の取り込みで共通点を探してみた。何かあるだろうか。階段を登りながら思案。歌い手はどちらも女性でシンガーソングライターであった。自分で作詞作曲をこなす人種だ。これが音楽の原点だろう。分業制で曲と歌詞、歌い手が独立し、上手な歌い手に提供するシステムがある。もちろん、ビジネスであるから成り立ち、利益が上がれば追従する。この場合、歌い手は作詞家の、作曲者の意図を汲み取れるのか疑問だった。取り込めていない可能性だってある。さらった歌詞のさらに先の核を捉える必要がありそうだ。

 うん。改札はもう私一人を残すのみ。学生たちの姿はもう通路の曲がり角、エスカレーターの付近に数えるほどだった。

 講義の間中もギターで頭は満載、勉強は微かに居場所を与えられてるだけで、黒板の文字を写している。重要そうでも黒板に書かれない内容はノートの隅に書き込む。

 歌詞っていつ思いつくんだろうかと、文字を書いているうちにふと立ち止まる。歌に変換するために書くのか、それとも思いついて浮かんで書いてしまうんだろうか。私には考えや思い、あるいは日常の出来事を投影した感想を文字に書き起こした経験はない。日記だって一日をまとめるツールとしか思えないし、人に話すそれと僅差で代わり映えはしないと思う。

 伝える?何に、誰に?疑問となる対象を予め用意する必要がある。でも、その前にまずは歌詞の踏襲だ。歌い手や作詞家が何を思い歌詞を書いたのかを深く知らないと、あの浮遊感は味わえないのだから。

 自動書記の手がいつの間にか停止していた。壇上の教授の動きが止まり、かと思うとはけていった。授業は時間の概念を超越して短時間に縮小しているみたいだった。

 私はその日一日、家に帰るまで常にあれこれと歌詞について考えを巡らせて日常生活は上の空。なぜそう書いたのか?あれこれと様々な角度からアプローチに挑戦し続けた。