コンテナガレージ

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今日からよろしくどうぞ、不束者ですが1-1

 旺盛な食欲は、冬を越す動物にとって欠かすことがあってはならない、秋の通過儀礼のようなもの。とにもかくにも、しかし人はよく食べる。それは秋に限った食事ではまったくなく、毎日、目の前で繰り広げられる食欲を満たす、午後への明日への、はたまた今日のご褒美としての、通年に渡る人の業の元に日々繰り返される。空腹を作ってみたい、とは思えないらしい。それが<何よりの食事>を高める効能とは知っているくせにだ。咎めたりはしない。お客への食事の提供が私の生業である。

 肌寒い。秋の気配はひしひしとにじり寄る、昨夜はついに長袖を羽織った。しかし、まだ地下鉄入り口の街路樹や民家の庭木、遠方に見えるかすかな山々の彩りは、緑の構成色が幅を利かせる。

 店主は出勤時間の二時間前の午前八時三分の地下鉄に揺られ、本日のランチを正面の天袋を眺めながら、そこへ視点を固定し、考察に耽る。非常に何度も同じ人物の視線を受け止めてしまうため、仕方なく、不本意でこうした対処を取る。日常に気にも留めない通常の私であるならば、目を閉じることも可能であったが、網棚に置かれた茶色い革のバッグの持ち主が誰あるのかを、それとなくランチメニュー考察と平行して予想を立てていた。けれど、突きつけられた視線は一向に収まりが着かないので、車内の景色とは縁を切った。

 二駅分を一時間ほど前のベッドで寝そべる瞼の裏の光景に引き戻し、店主は降車を待つ。

 乗客たちの服装の変化を捉え、それらを参考に、今日のメニューを決定する。使用する食材は予め昨日に発注をかけるが、日によってはこうして気温や気候の変動に合わせた調整を行う。そのための、変化の推移を肌で感じ取るのだ。寒暖差、朝と夜を見つめると、お客が求める温度が知れるというもの。

 流行を追いかける、これも一つの手法である。お客はそういった周囲との同調に敏感だ。ただし、長く続く要素は希少であって、定番として生き残るのは、一割にも満たないだろう。特に飲食業はその移り変わりが速い。価格に物を言わせる時代の次には高価格帯の出現、好みの細分化に応じた特殊な形態、個人店のひしめき・乱立、衰退に淘汰。それから、中間価格が台頭し、次の時代が流れる。

 S駅のひとつ前、S市中心街のターミナル駅をいつものように降りた。考え事に費す時間に数十分の移動は最適に思える。一つネックなのは、人の歩く速度が早いことだ。せっつかれ、足早に前に出た人に睨まれたことも一度や二度ではない。踵もよく踏まれる。肩もすれ違いざまに弾かれることはしばしばだ。僕が予測するに相手はこちらへもある程度の移動を求めているらしい。距離感覚の衰えに思えないし、意識を失う速度ではまったくない。先を急ぐ乗車客、これほど早足で思考にエネルギーを注げる方法があったら、教えを請いたいと切に願うだろうな。進行方向の遮蔽物を確認するために視野を広げるのは必須の行為だし、常に左右の死角を補う首や体の可動に危険予知のシミュレートを走らせる視覚が常時稼働していなくてならない。僕には不適切な行動だ。それに、そうしてまで急ぐ理由は存在しない。