「いないって、どうしてまた」大島八郎はまた拡声させ、指摘を受ける前に反省。一転、小声でしゃべる。「私はその人に頼みましたよ」
「疑っているのではありません」
「その男の携帯電話で警察に通報しました!ああっ、思い出した、思い出した」沸点の上昇が読めない、鈴木が手のひらを見せて制する。
「どうか落ち着いてください、大嶋さん」
「はあ、ええ。すいません。いえ、僕に疑いがかかるとは思ってもみなくて」大嶋はそっとあたりを見渡した。しかし、彼の予想に反して刑事たちに事情を聞かれる大嶋は、関心の対象外。受付も、出入りする社員たち、外部の人間も一様に自分たちの仕事で手一杯である。あえて警察という名称を伏せた呼び出しの効果だろう、と熊田は思う。
「あの男といいましたが、知り合いではないのですか?」
「はい、ベンチの近くにいただけです」
「失礼ですが、何をされていたのですか出勤前に?」鈴木がきいた。種田はまだ口を開かない。
大島は鈴木に話す。「散歩ですよ、犬の散歩です」
「毎日ですか?」
「ほぼ、そうですね、はい、毎日です」
「ベンチの女性に見覚えはありますか?」熊田が質問する。
「うーん、ないとは思いますけど、はっきりとは言い切れません。死んだ人の顔ははじめて見ますし」
「他に何か気がついたことはありませんか?」
「そういわれても、……忘れてることといったら、ええっと、ベンチの下に文庫本が落ちていたぐらいですかねぇ」顎に手を当てた大嶋が言った。
「たしかですか?」
「ええ、私が拾いました。こうやって、指紋をつけないように袖で持ち上げて。あの本も男に渡しましたけど……」大嶋はそこまで言うと熊田に投げかける。「いけませんでしたか?」
「男に渡すのは賢明な判断とはいえませんね」
「ああ、そのどうしたらいいんでしょうか。会議さえなければ警察の方が来るまで待てたんです。それは信じてください」大嶋の表情が一段と懇願を表現する。
「文庫本と言いましたが、タイトルは覚えていますか?」
「幸福論」即答だった。
「戦争の話ですか?」鈴木が高い声で熊田に聞いた。
「平伏す方の降伏ではなく、幸せの幸福です」