マンションを出る直前にかすれた声の小川から連絡が入っていた。インフルエンザらしく熱が出て動けない、休ませてくれ、そういった内容。即座に一週間の休暇を彼女の言い渡す。半ば諦めるように、彼女は言いかけた言葉を呑む、息遣いがスピーカーを伝わってきこえた。呼吸の乱れとも思えた。ただ、一週間の労働はアルバイトの彼女にはかなりこたえる金額だろう。しかし、熱の下がった彼女を店に出すわけにはいかない。食品を扱うのだ、唾液や鼻水の飛まつがマスクを覆うからとって、完全に防ぎきれると言えず。また、マスクだらけの店にお客が好んで入りたがりはしない。そういった視点も彼女の長期離脱を言い渡す理由である。
と言うわけで、ランチは必然的にテイクアウトのみで一週間を乗り切る。ディナーも休憩はなし、国見と館山に数十分の休憩を二時間ごとに入れるとするか。八割、九割で疲労が溜まりきる前に一度体を休める。長時間の働きには必要なことだ。僕はいつも休んでいる。力を抜いて、余計なことを考えない。物事は大まかに捉えて情報を減らす。味付けや火加減は体に任せる。頭よりも記憶力は良い。
ランチメニューを考えていると、一週間ぶりに早朝のドアが開かれる。ことのほかベルも楽しげに鳴る。
「大豆否定派に傾いたのね、この店は。正しさ、私の忠告がやっと効力を発揮しだしたみたい」彼女は小麦論者、大豆に祖先の恨みを抱くような根拠のない思想傾向。再び姿を見せたということは、彼女が襲撃を実行したのではないのか。また、謎が深まるばかり。
「どちらさまですか?」見当はついていたが、あえて初対面を演じる。
「なあんだ。私のことを忘れちゃってたのか、残念」彼女の口がくちばしみたいに尖る。「面白い情報を提示するよ、メモの用意はいい?」
「記憶力はいいほうなので、いつでも」
「あれれ、それじゃあ、私のことも覚えてるはずだけどな」こめかみに指で作ったピストルを当てる。弾は装てんされていない、とみる。
「人の顔を覚えるのは苦手で。私には時間がない、用件ならお早めに」
「急かさないでくれる?こっちのペースがあるんだから」
「限られた時間ならば、用件をより正確に、相手に届けるよう工夫を凝らす」