コンテナガレージ

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私は猫に石を投げるでしょう1-1

地上→三F  四月一日

 

 選択の一日が始まりの鐘を鳴らす。裏打ちされた自然への乖離、回顧などはいつも私は吐き気をもよおしてしまう。雄弁に語る姿を鏡にあるいは映像で見返すことは決してしないのだろう。信じているのだ。どうでもいいけれど、拡声器の音量は伝えるばかりではなく、その裏に隠した仮面の作用をも見せ付けてしまっている、と誰か教えてあげてほしい。

 私は、自転車を軽快に漕いで仕事場に向かう。春がすっかり定着し始めたものの、雪はすっかり近辺を離れたものの、南風が運ぶ、冷たい風は十二月だ。これから冬の準備に身を縮める覚悟にはない、それは暖かさへの安心感からか、気温にまして寒さが身にしみる。手袋はかろうじて風を遮るが、一旦建物に入ると、邪魔者扱いで、ポケットから滑り落ちないかを常に気にかけている、私であった。

 工場が立ち並ぶ地帯、住宅と工場が建造物の大半を占める一帯に不自然にも高々と低価格な土地をあざ笑う遭難者には優しい方角を確かめられるビルが私の職場である。海沿いの砂地。丈の短い草の緑は覆いかぶさる雪が解けたら、間髪いれずに光を浴びる覚悟だったのだろう、笹の葉も微かに薄茶色に変色しているが、大よそ緑。垂直に立つ緑の葉を落とした奴らとは、生き方が異なるのか。

 安藤アキルは、クロスバイクにショルダーバッグというスタイルで通勤。ほとんどの社員は車か最寄り駅から送迎バスを利用し、人によってはそこから自転車やバイクに乗りかえる。私のように自宅から十キロもかけて、往復の時間を運動に充てる人物は稀な部類。社員の中にはそうした人物がいるのかどうかすら、把握は困難である。

 人との対話はごく限られた人物しか行わないからだ。なぜなら、世間一般で通常とされる生活様式が私が勤める場所では一切通用しない。しかし、それほど大げさなことではなく、むしろ私は大いに満足し、仕事の効率も上がっている、と自負している。

 海風が運ぶ砂が目に入るために眼鏡をかけている、どこにでもある度が入っていない安物の眼鏡だ。特殊な波長を吸収する効果はまったく期待できなし、私はもちろん期待はしていない。視力が回復しつつある時期に、眼鏡の利用をやめているのだ。専門化いわく、今後は眼鏡の必要はありませんが、万が一に備えて、ご使用の眼鏡は大事に保管しておくようにと。言っていることの矛盾に気がついていない医者の言葉であった。仕事上、視神経の疲れをどうにか抑えるなら、まずはその低下した視力の回復に努めること。これで日々の疲労も軽減するのではないのか、そう私は思い立ち、病院を訪れたのは先々週のこと。あまりにも見えすぎて困るといった触れ込みの病院だったと記憶する。