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私は猫に石を投げるでしょう1-4

  大まかな書籍の内容、あらすじが書いているが、果たしてそれで本とリンクさせた表紙が最上と言い切れるのだろうか。むしろ、内容に反したデザインでも価値は十分に見出せる。それはつまり、手に取ったお客が判断することだ。もちろん、作家が生み出した作品ではあるし、手に取って姿の想像までが商品の作り手の仕事だろうが、もしかするとお客に委ねてもいいのではと私は思いついた。

 飲食は仕事中は水だけで済ませる。持参した水筒をデスクに置く。中身が見えないように残りの量を把握するように、極力補給を控えるように心がけてる私だ。他の社員はコーヒーや甘い、もうコーヒーとは呼べない飲み物や炭酸飲料にお茶、さらに軽食の類までをデスク持込んで、空腹に備える。飢餓に苦しむというよりは、食べることが無意識に刷り込まれた反射に思えてならない。私は、食事は好きだ。食べない、ということはしない。朝食は決まって食べないようにしている。それは必要には思えないからだ、決して体重を気にしているのではない。別にそう思われても構わないが、外見、体型ともに、どこから見てもその必要性は問われないだろう。

 曲がリピート。もうかれこれ十回は耳に届いた。歌詞もある程度はそらで言える。月が歌詞に出てくる、まるで昔の歌人みたいだ。しかし、安っぽくはない。しっかりと標準的な度量をもって歌詞が書かれている。あいまいで、うすっぺらな商業曲とは異なる。無論、そういった曲にも価値がある。欲している人物がいるのだから、仕方のないことであるし、大勢に向けるためには瞬時の理解、つまりは考えなくても響く、考察を省いた曲が求められるのだ。

 めずらしくあたりの曲。悲壮感と非加熱の内部心度の高さが同居した不安定さだ。

 ディスプレイの上に人の顔。後輩が仕事についてのアドバイスを求めてきた。歌詞に符合する、ふがいなさを前面に取り組み方を知らないのか。現状の打破にすら根拠の欠片もなく、曖昧にその場を収めようとして、それでも仕事を完遂したく手近かな人物の私に忌憚のない意見を言わせるのか。何も頑なに凝り固まらなくもと、私は口には出さずに後輩の仕事に適した曖昧な指摘を教授するんだ。人を育てる立場に私も身をおく一人である。が、ときに仕事のためとはいえ、期間内に完成させることにまずは重点を置いた作業を行わせている、この会社はそういった育成の面に最初から取り組んでいるといえよう。時間に追われれば、人は持ち前の能力の中で最大を発揮、時にははみ出してしまうほどのものを生み出す。社長の狙いはそこにあるのだろう、既存枠とはつまりは自分の取り決めた見えない枠なのだ。だから、指導する後輩にはあまりアドバイスを送らない。こうすればいい、だからこうなって、こういったものが出来上がる、そういった固定的な手法を私はこれまで教えてこなかったし、私自身も決められた作業は避けてきた。