コンテナガレージ

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私は猫に石を投げるでしょう1-5

 後輩が去って、また作業に取り掛かる。デザインの起点をどこに据えるか。読者層の多い年代はどの年頃だろうか、私はクライアントに情報を求める。電話口の音声ははきはきと、受け答えのレスポンスが早い。しかし、しゃべりすぎるという難点も数分の会話で感じ取った私は、要点だけを聞き終えると、電話を切った。言葉を履き違えている、どこでそういった仕組みが出来上がったのか、不思議でならない。

 読者層は十代が最も多く、ついで二十代と三十代。それ以上はほとんど読まれてない。つまりは、十代には知れ渡った作者であるのか。私は考える。手を伸ばさないように振舞った層を取り込めば売り上げは格段に伸びる。上の年代も十代の時期を過ぎているのだ、可能性は大いに期待ができる。

 方向性が決まったら後は早い。私は昼食を忘れて午後の三時ごろまでデスク。一度も立たずに、ディスプレイに向う。肩の違和感と頭の発熱、急激なエネルギー不足による機能低下が襲って、休憩を入れた。作業はほぼ完成していた。しかし、重要なのはこれから。安心すると私はぱったりとそれまでの仕事量の半分以下で動こうと怠けてしまい、だから作業は最後の残りと全体のチェック、また時間を置いたあとの、仕事から数時間はなれたあとの、評価を残していたのだ。すべての時間は予定に沿って現在のところ、進行。午後八時には帰宅できると踏んでいた。

 一階の食堂で遅いランチ。食堂でべらべらと話し込んでいる人物がいたとすれば、部外者。この会社の人間は不要な会話を好まない、先ほど私に仕事のアドバイスを受けた後輩にしても、仕事以外でのプライベートな史実を交わした記憶はまったくない。ほとんど、わずか、ではなく皆無だ。必要性がないのだ。相手の事情を知っているからといって、その内面を推し量ることにどれほどの意味があるのか。私には理解が難しい。クライアントが持ち込んだ本は、デジタルの形で現在私の手元にある。平たい端末で私は食事の傍ら、それを読んでいた。文章は落ち着いて読む速度よりも若干会話のペースを意識した書き方である。つまり、多くの情報を読者に自然と這わせることで物語に導く手法か。私は、からあげを口に運んで、天井までの窓を眺めた。外は曇り空で雨が降る。帰りはレインコートを着なくては、意識がよく飛ぶ私の思考である。

 食堂を出ると、二階の仮眠室できっちり一時間、睡眠を取る。

 起床、午後五時前。

 わざと未完成で放り投げた仕事にこれから終わりを告げる。もちろん、曲は聴きっぱなし。さすがに睡眠時の離脱は許されている。改めて曲に聞き入る、午前中とは異なる印象、全体を掴んだいため、細部のディテールに感性が届く。そして、午後六時を迎えて、ほぼほぼ完成。残りはチェックを残すのみ。制作の権限は一人一人に任されており、クライアントへのゴーサインも個人の裁量に委ねるのだ。これは嫌でも個人のスキルと仕事への取り組みが高まるというもの。