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私は猫に石を投げるでしょう1-6

 何もせずにぶらぶら、屋外に出た。雨上がりで路面がてらてらと濡れて、渇くほどの温度上昇は見込めない時間帯である。強風の海辺。砂の侵入をもろともしない私は、砂丘を降りて海岸を臨んだ。歩く。犬を連れた男性が、歩いている。あとは、海と灰で埋め尽くされた空。うねうねと生き物のように姿を変えている。

 座るでもなく、また走るでもなく、歩くでもなく、立ち止まり、振り返り、また歩く。取りとめもないことも考えそうになれば、遮断して思考を嫌う。面白いことを思い出しそうになっても取り合わないで、ただ、私は時間と共にいることを海の傍で思い知るのだ。遠くの水平線に船を確認した。あちらからは私は見えていないが、私からは見えている。巨大、大きい、とはつまりはそういうことなのだ。だから、私は極力小さくありたい。表に出るのは不向きだ。そう思い込んでいる可能性もたぶんにある。しかし、個人よって性質が異なるのだとしたら、私も尊重されるべき。

 思うにデザインとはなんであるか、そういった面倒な議論にクライアントとの食事で交わされ、巻き込まれたっけ。思い出したくはないけれど、記憶に新しいので、浮かんだのだ。考えて捨てることにしよう。

 五人ぐらいの会合。出席者の名前はほとんど記憶にない、顔は覚えている。デザインの良し悪しについて、一人が雄弁に具体例を出して、こういった作品がよくて、反対にこういったものは受け入れらないと、半ば独断的に語っていた。それに対して、二人の意見が飛び交い、それは賛成と反対だった。賛成派は、デザインの基礎をまったく理解していない作品が多すぎると、嘆いてもいた。また、反対派の意見は、あまりにもそれは論理的な議論とは思えない、デザインとは失敗も成功もないので、すべて許されるべきであるとの答えだった。個展を開くような、あるいは賞を得る展覧会に出品する作品と企業ロゴやかわいらしいキャラクターは、それぞれの居場所で価値を認められているのだと、納得させるように何度も反芻してすきのない意見まで昇華、築きあげたような言い方であった。そこでは、私に対しても意見が求められた。何も答えることはないと、断りを入れたが、私だけ意見を言わないのは不公平と、最初に口火を切った人物が指摘したので、仕方なく答えた。訪れる重苦しい沈黙がお好みなら、とはじめに言い添えて。

 特にデザインの様式に関してはその良し悪しも不具合も場所への提供から来る比較の困難さもすべて、私の意見でない。私は、特別なデザインに一種の視点を持って創作をしているつもりだ。もちろん、クライアントの意向の沿った作品ではあるが、それ自体すべてが私を好まざる意匠ではなく、曲がりになりにも私の書きたい衝動とクライアントの意見が重なる部分に焦点をあわせる仕事であると思う。なので、受け入れがたい作品も存在するし、好きな作品も他人には映り、対極の感情を抱くだろう。だから、私はそういったことを考えないように取り組み、しかしそれは、考えないでいる、ということを強制しているので、やはり私に忠実とは言いがたい。よって、私は何も考えないように決めたのです。私をすべては排した。