「結局、あんたの言った通り、おとりが警察に捕まったのか?」自宅に戻った三神はテーブルに足を乗せて都会の電灯を高層階から眺めていた。部屋は想像をはるかに超えた散らかりようであったが、半日をかけてやっとつい一時間前に落ち着いたばかりに、テレビを見てうとうとしていたら取引相手の女性から連絡。
「さあね。電話で話す内容にしては核心を突きすぎてる。答えられないわ」
「巻き込んでくれたおかげか、部屋はだいぶすっきり片付いたよ。嫌味なぐらいに何もない」間接照明も観葉植物、スピーカー、空気清浄器、食器棚、その中の割れ物全般は正常な機能が失われ、書斎のPCは配線ごと、記録媒体はリスクを分散していつも持ち歩いている作業中のデータを残し、奪われた。過去のデータはまた別の場所に保管していて、しかもそれらは既に発表された作品である。表に出ても特別驚かない。加筆、修正を加えた程度の差異が発見できるぐらい、僕の小説を敬愛するマニアならば垂涎の価値。こういった緊急時にそなえて、取引相手から譲り受けた小説の構想は、何度でも忘れないように頭に叩き込んである。記録としては一切残さない、契約でもその点は一番強調された箇所であった。もしかすると、電話口の女性はこの襲撃が確実に起きると知っていたのかも。
「しばらく連絡は取らないと思ってちょうだい、動くにはかなりのリスクだから」
「こっちは別の仕事が立て込んでる、好都合だよ」三神は舞い上がったほこりで咳き込む。「襲おうとした女は、死ねなかったの?それとも最初から死ぬ気はなかったんだろうか」
「もともと風船は膨らんでた。そこに一押し、彼らが背中を押したものだから破裂した」
「そういった人を都合よく探せるものかな」三神は唸る。
「さあ、あちらの都合はよくは知らないのごめんなさいね。連絡は、もう襲われない、安全を伝えたかったの」
「本は売れているらしく、また増刷が決まったらしい。ニュースが形骸化する前に店頭に並べたいんだと、一週間も遅れたら一冊も売れなくなるって」
「またお金持ちね。出版社があなたにじかに催促するまで増刷は待ってね」
「取材の連絡には出版社に任せた、普通は個人的に取材の受け答えはするんだけれど、売れ行きの異常さが異例の対応を受け入れてくれたよ。顔の出る取材は断っているだけなんだが、それが意外と業界では不評でね」
「あらあ。あなたのハンサムな顔が見られないのは、残念ね」
「わざとらしい」
「とにかくしばらく、連絡は控える。女性を部屋に呼び込むならどうぞ」
「どういう意味?」
「一時的に私たちの監視も解かれる」
「そう簡単に相手が見つかるかな」
「半年後に、また」
「そっけないなあ」
自由を言い渡されたら、それはそれで開放感には浸れない性格を呪う三神は、舞い込んだ仕事の構想をうつらうつらと考え始めた。あれやこれやと想像が膨らむのは何も決まっていない、初期の段階に見られる症状だ。他人の優れたストーリー運びは抜群のトレーニングと等しく、伏線の張り方や背景の描写人物像の描き方、話の盛り上がりと肝心の終わり方。まったく同じ構成ではなるべく書かないように書かないように文書をつむいでいたら、いつの間にやら独特で読んだことのない物語が出来上がった。それからは、誰もためてしてないことばかりを書いている気がする。三神の読者は王道のシリーズモノから、単発で発表される作品にも手を伸ばし始めていた。
いつものカフェ。不思議と情報が頭に落ち着いて整理されている。打ち込み中は常にイヤホンで音楽を聴いていたが、今ではすっかりご無沙汰。赤い女性が頻繁に町で目に付く、目が合うときっかけみたいに小説の構想が湧き出して止まらない。一ヶ月単位でこなしていた執筆は二週間に縮小された。人の行動が遅い、緩慢だと感じる。車なんて運転できないぐらいに、気がついたら法廷速度はるかに上回っている。打ち合わせも二言目で先が読めた。予測は大体的中。パージョンアップというよりかは、うん、あるべき姿にもどっただけなんだろう。天才はいない。ありのままで、自分勝手な解釈と抑圧が偶然にもたらされなかったんだ。
町の赤。女性の赤がきっかけかもしれない。誰の色だろう。男だから着られなかったか。戦隊ヒーローは赤がリーダーなのに。おかしいや。おかしくて笑えてくるよ。隣の席の女性が笑い声で振り向いた。すまなそうに三神はあごをひいた。しかし、女性は笑って赤すぎる口元に引かれたラインを左右に目一杯引いた。