熊田は喫茶店ではなく触井園京子の家の前に降り立った。昨日の大雪でも道路は除雪車の往来で快適なドライブを演出してはくれたが、一本通りを中に入るとまだまだ雪は積もったままである。
見張りの警官は本来の業務に戻ったらしい、玄関には誰もいない。特別に調べたい用件があったわけではないのだ。目的は気分転換、これが理由で問い詰められれば、相手は理解できずに首をひねるだろう。現場はいつもリビングから調べていた、と思い熊田はまず二階に上がる。
絵画が置いていかれた部屋に足を踏み入れた。おそらく夏場であればむせ返る埃も今時期は激しい呼吸さえ気をつければ大丈夫だ。窓は二重サッシ、内窓は木枠で外窓がアルミ製。この窓は玄関のちょうど真上である。熊田は窓を開けて下を覗いた。いくら密室の問題をクリアしたとしても、ここから飛び降りては足が何本あっても足りない。飛ぶたびに折れてしまう。
熊田は顔をしかめた。目を細めてみる。臨海道路から人が歩いてくる。この家が道の終着で途中には逸れる道はない。触井園の知り合いかもしれない。熊田は一階に降りて到着を待った。雪道を歩く人はモスグリーンのジャケット、フードを被り俯いた顔。熊田が乗ってきた車の横でその人物が止まる。フードから溢れた髪で女性だとわかった。足元は茶色のショートブーツ。ゆったりと運転席から相手の視点が熊田に移る。熊田がつけた足跡を辿り、黄色いテープの前に。
「なにか御用ですか?」
「あら、刑事さん。お久しぶりです」上部に傾けた顔に見覚えがある。というよりかは、これからこの人物を尋ねるつもりであったのだ。日井田美弥都はフードを取って顔を見せた。
言葉に詰まる熊田に美弥都が洗礼を浴びせる。「また、事件ですか?刑事ですから事件はつきものか。お一人で?」
「……ええ、まあ、一人です」
「いつもの女性の方はいらっしゃらないようですね。お休みですか?」
「いつも一緒というわけではないので。あの、なぜこちらにおいでになったのでしょう」美弥都の言葉遣いが伝染り、かしこまった相手にだけに話す使い慣れない丁寧な言葉で熊田は訪問の理由を尋ねる。彼女の口ぶりから、今回の事件についての知識は皆無であると推測する。そこまでわかっていながら、慌ててしまった自分は喫茶店で事件を解決してくれると望んでいたために表出したのだろう。
「お届けものです」美弥都は雪をかぶるショルダーバッグから茶色の包を取り出した。「店で取り扱うコーヒー豆が入荷したので予約された触井園さんに届けに来たのです。でも、お客さんは家にはいらっしゃらないようですね」
彼女はまだテープの外である。体には雪が積もっていた。
「ご存知ありませんか?」
「なにをです?」
「触井園京子は亡くなりした」
「……そうですか。残念です、せっかく美味しい豆に焙煎されたのに」美弥都は家全体を眺めた。触井園の気配を探るかのように。「テープが張っていて刑事さんが家から姿を見せた。病気で亡くなったのではないのでしょうね。私には関係のないことです。それでは私はこれで失礼します」
「お時間を私にいただけませんか?」熊田はここぞとばかりに美弥都を呼び止めた。
「私にメリットがありますか?」横顔で彼女が言う。
「休憩でこちらに来られたのでしょう?だったら、店まで車で送りますので浮いた時間を私にいただけないでしょうか?」
「メリットは?」
「冷たいシートを用意します」どちらに転ぶかは掛けであった。しかし、六割方、美弥都は同意すると熊田は信じた。
美弥都が微笑を浮かべる。機械のような頬が丸みを帯びて口元が左右に引かれた、均等な歯が顔をのぞかせる。「正確には休憩時間ではありません。雪がこんなに降ってしまったものですから、駐車場の除雪が完了するまでの時間を有効利用したのです」美弥都はコートから携帯を取り出し時間をたしかめる。「ここまで約二十分、車だとおおよそ五分程度で到着しますから、よろしいですよ、十五分ならば」
「ありがとうございます」
「中にはいってもよろしいのかしら」
「ええ、もうあらかた証拠品は回収し終えました。ただ、極力室内の物に触れるのは避けてもらえればと」